大白法982号 平成30年6月1日より転載

御書解説219 背景と大意

南条後家尼御前御返事

御書741頁 別名上野殿御返事

一、御述作の由来

 本抄は、文永十一(一二七四)年七月二十六日、大聖人様が御年五十三歳の時、甲斐国身延において著され、故南条兵衛七郎殿の夫人に与えられた御消息です。御真蹟は、茨城県常陸太田市の久昌寺(日蓮宗)に蔵されています。
 対告衆である南条後家尼御前は、駿河国庵原〈いはら〉郡松野(静岡県富士市松野)の住人・松野六郎左衛門の娘で、六老僧の一人・蓮華阿闍梨日持の妹(注1)とされています。夫である南条兵衛七郎は、文永二(一二六五)年三月八日に年若くして亡くなっています。温厚で、実直な人柄であったと言われています。
 南条家の氏〈うじ〉は平〈たいら〉で、伊豆に所領があり、そこから駿河国富士上野(静岡県富士宮市)の地頭となりました。鎌倉幕府の北条氏とは同門で、得宗〈とくそう〉家の御内人〈みうちびと〉です。
 総本山大石寺の開基檀那である南条七郎次郎時光殿は次男で、兵衛七郎が亡くなった時はまだ七歳でした。時光殿の兄・七郎太郎も九歳と幼く、末子の七郎五郎はまだお腹の中にいました。主を失った南条家では、後家尼御前が幼子を抱えながら一族を統率し、南条家存続のために尽力していたことが推察されます。
 本抄は、大聖人様が身延に入られたのを知った後家尼御前が子息・時光殿を遣わし、御供養の品々をお届けしたことに対する御礼の御消息です。

二、本抄の大意

 本抄は、初めに御供養の品々に対する御礼を述べられます。
 続いて、鎌倉でお会いしたことは仮初めのことであると思っていたけれども、信心を忘れることなく続けられていたことはたいへん有り難いと述べられ、大聖人様が佐渡に配流された後も信心を続け、大聖人様が身延に入山された報せを聞いて、すぐに御供養の品を届けられたことを称賛されています。
 次に、故上野殿(南条兵衛七郎)が存命であったならば、常に法門を申し上げ、またお話を伺いたいと残念に思っていたが、殿は形見として、ご自身を若くしたような子息を遺されたと、後家尼御前に遣わされた子息・時光殿と、その弟の七郎五郎を見て、その姿と心が兵衛七郎に似ていることをたいへん喜ばれます。
 そして、かつて故上野殿が法華経を信仰することによって成仏されたと承った際に、鎌倉から富士上野の地まで墓参のために下向されたことを回顧されます。
 続いて、飢饉の中で始まった身延での生活は厳しく、その中での御供養が非常に有り難いことを仰せられます。
 そして、今回読経した功徳の一分を故上野殿へ回向させていただいたと述べられ、やはり人はよき子を持つべきである、時光殿を見て涙を押さえることができない、と仰せられます。
 最後に、法華経に説かれる妙荘厳王は二人の子供によって成仏に導かれたが、この王は悪人であり、故上野殿は正法を信ずる善人である。故に妙荘厳王とは比較にならないほど功徳があり、必ず成仏されていると仰せられ、その信仰を受け継いだ後家尼御前と子息たちを称賛されて本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

 正法正師による追善回向の大事

 本抄に「御はか(墓)にまいりて」と仰せのように、南条兵衛七郎が亡くなった時、大聖人様は鎌倉の地より富士上野の墓所に御下向され、菩提を弔われました。これは正法による追善回向の大事を示されたものと拝されます。
 大聖人様は『唱法華題目抄』に、
 「追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来たって、法華経は末代の機に叶ひ難き由を示す。故に施主も其の説を実と信じてある間、訪らはるゝ過去の父母・夫婦・兄弟等は弥〈いよいよ〉地獄の苦を増し、孝子は不孝、謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる」(御書 二二四頁)
と、追善供養を修するに当たって、念仏等の謗法の邪師が弔うならば、亡くなった父母等はいよいよ地獄の苦しみを増し、それを依頼した子供は不孝の者となると仰せられ、正法正師による追善供養の大事を御教示されています。
 また、回向とは善根を修した功徳を他に回し向かわしめることを言いますが、本抄に、
 「このほどよみ候御経の一分をことの(故殿)へ廻向しまいらせ侯」
と仰せのように、御本尊に向かって法華経を読誦し、南無妙法蓮華経の題目を唱えたその功徳の一分が故人に回向されるのです。
 本宗においては、朝夕の勤行・唱題の折に追善回向を行う他、命日忌や法事の折など、各所属寺院に願い出て塔婆を建立しますが、これも故人に対する追福作善となります。まずは自らが善根を修し功徳を積むことが肝要です。

 父母への報恩

 大聖人様は本抄の最後に、法華経『妙荘厳王本事品第二十七』に説かれる妙荘厳王の故事を挙げられています。
 妙荘厳王には夫人の浄徳夫人と浄蔵・浄眼という二人の子息がいました。夫人と浄蔵・浄眼の二人の子息は正法を受持していましたが、妙荘厳王は外道の教えに執着していました。浄蔵・浄眼は神変(不思議な現象)をもって王を正法へと導き、後に記別を与えられました。この説話が示すように、たとえ親であっても、正法誹謗の者であれば、諌〈いさ〉めて正法に導くことが、報恩となります。
 大聖人様は、御在世当時の池上宗仲・宗長兄弟に対し『兄弟抄』において、
 「父母の心に随はずして家を出でて仏になるが、まことの恩をほう(報)ずるにてはあるなり」(御書 九八三)
と仰せになっています。
 池上兄弟は、二度にわたる勘当を受けるなど、三障四魔が競い起こる中、力を合わせて父の康光を折伏し、大聖人様に帰依させましたが、このように謗法の親を正法へ導くことこそ真の報恩であり、最高の親孝行です。世間でも「孝行したい時に親はなし」と言われますが、折伏も同様です。聞く耳を持たないからと諦めてしまえば、正法に帰依することなく一生を終えてしまうでしょう。それでは孝養を尽くしたことにはなりません。

 法統相続の大事

 法統相続とは、子孫等にこの正法の信心を受け継がせることです。これは、単に御授戒を受けさせ、入信させることではなく、朝夕の勤行・唱題を実践し、折伏弘通に邁進するよう育てあげることです。これにより一家和楽、子孫繁栄の功徳が顕われてきます。またこれは、大聖人様の仏法を令法久住・広宣流布する上からもたいへん大事です。
 法統相続は、まず親がこの本門戒壇の大御本尊に対する絶対の信を確立し、自行化他の信心を率先垂範することが重要です。子供はその親の信心姿勢を見て育ちます。
 本抄に、
 「をんかたみに御みをわかくしてとゞめをかれけるか・すがたのたがわせ給はぬに、御心さえにられける事いうばかりなし」
と仰せのように、故上野殿と後家尼御前の信心が、家督を継いだ時光殿をはじめ、子孫に受け継がれていくのです。
 時光殿は、本抄御述作の時には十六歳となり、立派な青年となっていました。この時の大聖人様との出会いが、後の日興上人の富士方面における弘通の支えとなり、また大石寺創建へと繋がるものと拝されます。
 特に本門戒壇の大御本尊御図顕の機縁となった熱原法難においては、鎌倉幕府からの様々な圧力に屈することなく、法難に関わった人々を匿いました。そのため、逆賊の汚名をきせられ、不当で過重な公事をせめあてられ困窮しましたが、そのような中でも身延の大聖人様のもとへたびたび御供養するなど、その不惜身命の信心は法華講衆の鑑であり、大聖人様も時光殿に「上野賢人」との称号を与えられています。
 この時光殿の信心も、父の兵衛七郎と母の後家尼御前の信心姿勢を受け継いだものであり、法統相続の重要なることが拝されます。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「折伏をしてそのままにしておくことは、あたかも赤ん坊を産んでそのままにするようなものであり、これほど無慈悲なことはありません。また、育成をおろそかにするようなことがあれば、まことにもって、その人に対しても、また自分自身に対しても無責任極まる行動となってしまいます」(大白法 九五一)
と、育成の大事を御指南されています。
 私たちは、自らが善根を修して功徳を積むことはもちろんのこと、家内繁栄を願って法統相続を確実に行うことが肝要です。
 三年後に迫った平成三十三年の御命題達成に向け、折伏と育成の両輪を忘れることなく、一層精進してまいりましょう。

 次回は『曽谷入道殿御書』(平成新編御書 七四七)の予定です

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(注1)上野母尼は、文永2年に7歳の時光を抱えて未亡人になったとされる。富士年表の説に従えば、文永2年時点で日興上人は20歳、当初日興上人の弟子であった日持は16歳である。母尼が日持の妹だとすると、16歳以下で、7歳の子供を抱えて未亡人になったことになるが、このようなことは考えられないので、母尼は日持の姉と考えるのが穏当であろう。

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