大白法988号 平成30年9月1日より転載

御書解説221 背景と大意

上野殿尼御前御返事

御書751頁 別名衣食御書・女人某御返事

一、御述作の由来

 本抄は、文永十一(一二七四)年、日蓮大聖人様が御年五十三歳の時、身延において認められた御書です。
 御真蹟は上封と第一紙、第二紙、第四紙、第五紙の冒頭三行の断簡と四行の断簡が、西山本門寺など五カ所に分蔵されています。
 本抄については、以前、第一紙を『衣食御書』、第四紙を『女人某御返事』、その他は別々の断簡として扱われてきましたが、平成六年の『平成新編御書』の編纂時に、内容や御筆跡等からそれらを合併し、一書として収録されました。
 なお、本抄は宛名部分が欠落していますが、内容から、対告衆は故南条兵衛七郎殿の夫人である上野殿尼御前(後家尼御前)と考えられています。
 文永二年三月八日に南条兵衛七郎が死去した後、大聖人様は墓参のためにわざわざ鎌倉より富士の上野の地まで下向されました。その時、総領の南条時光殿はまだ七歳と幼く、その後九年間は、南条家から大聖人様のもとへの音信はありませんでした。
 文永十一年五月十七日、時光殿が十六歳の時に、大聖人様が鎌倉より身延に入られると、時光殿は南条家を代表して、同年七月、いち早く御供養の品々を携えて身延の大聖人様のもとに参詣されています。
 これに対して大聖人様は、七月二十六日付の『南条後家尼御前御返事』に、
 「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事申すばかりなし」(御書 七四一)
と、後家尼に対し、鎌倉でお目にかかったことは儚いご縁かと思っていたのに、忘れずにいてくれたことは、まことに有り難いと仰せられています。
 以後、南条家は折に触れて種々の御供養を申し上げ、大聖人様を外護されました。それ故、大聖人様より門下で最も多い四十余通に上る御書を賜っています。
 文永十一年には、十一月にも種々の御供養を大聖人様のもとへ届けられています。

二、本抄の大意

 まず大聖人様は、鵞目(銭)一貫を頂戴したことへの御礼を述べられます。
 そして、御供養の功徳を、食物や衣服の三徳を挙げて教示されます。食物は、人の色艶をよくし、体力をつけ、寿命を延ばす。また衣服は、寒さを防ぎ、暑さをしのぎ、恥を隠す。すなわち、人に物を施す人は、その人の色艶をよくし、体力をつけ、寿命を延ばすことになる。また、人のために夜、火を灯せば、灯された人が明るくなるだけでなく我が身も明るくなるように、人の色艶を増せば我が色艶も増し、人の力を増せば我が力も増し、人の寿命を延ばせば我が寿命も延びる、と教示されます。
 また、法華経は釈迦仏の御色であり、世尊の御力であり、如来の御命であるから、病ある人は、法華経を供養すれば身の病も薄れ、色艶も増し、力もつくと仰せられます。
 冒頭で述べた通り、第三紙を欠くため、第四紙の途中へと続きます。
 ……物も障りとなることなく、夢と現〈うつつ〉とを分かつこともできない状態でいることでしよう、また、訪れるべき人が来られないことも、恨めしく思っていることでしょうと仰せられます。
 そして、女性の身として、親子の別れに身を捨てたり尼となる人は少ないが、夫婦の別れは、日々・夜々・月々・年々重なればいよいよ恋しさが勝り、尼となられる人が多い。それほどの悲しみがあるのでありましょう。
 また幼いお子さんもおられるので、誰を頼りとして一人前に育つだろうと心配されているでしょうから、私もあなたのもとへ参って心を慰め、また弟子を一人遣わして、お墓の前で一巻の御経をとも思っていましたが、この身はご存知の通り、上下の万民に憎まれているので思うにまかせませんと仰せられ、現存する御真蹟による本抄は終わっています。

三、拝読のポイント

 法華経の供養の功徳

 大聖人は文永十一年五月、鎌倉より身延に入られましたが、その道中のことを『富木殿御書』に、
 「けかち申すばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへ(帰)して但一人候べし」(同 七三〇)
と仰せです。この年は飢饉で、道中、米一合を売る者もなかったため、餓死してしまうような状況であること。そして、身延到着後にはお供の者を帰して、大聖人様御一人でおられることを明かされています。
 そうした中、南条家はたびたび御供養をお届けし、大聖人様をお護りしました。大聖人様は『食物三徳御書』に、
 「悪をつくるものをやしなへば命をますゆへに気ながし。色をますゆへに眼にひかりあり。力をますゆへに、あしはやくてきく(手利く)。かるがゆへに食をあたへたる人、かへりていろもなく、気もゆわく、力もなきほう(報)をうるなり」(同 一三二一)
と、本抄に仰せの「食の三徳」を説かれた後に、謗法の者に対する布施が悪果報を得ることを明かされています。

 一生の間の罪を消滅

 また、大聖人様は『千日尼御前御返事』に、
 「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり。十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり。(中略)譬へば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し。法華経の妙の一字は小火の如し。小火を衆草につきぬれば、衆草焼け亡ぶるのみならず、大木大石皆焼け失せぬ。妙の一字の智火〈ちか〉以て此くの如し。
 諸罪消ゆるのみならず、衆罪かへりて功徳となる。毒薬変じて甘露となる是なり。譬へば黒漆に白き物を入れぬれば白色となる。女人の御罪は漆の如し、南無妙法蓮華経の文字は白き物の如し」(同 一二九〇)
と、法華経(御本尊)を信じ供養する人は、十方の諸仏を供養する功徳と同じであり、一生の間の罪障をたちまちに消滅することができると仰せです。

 自他共に明るく照らす

 大聖人様は本抄に、
 「人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあかし」
と仰せです。これは財施・法施に通ずるものです。
 まず、財施である御供養について言えば、真心から人法一箇の御本尊に御供養申し上げることは、大聖人様の御身を照らすのみならず、我が身をも照らし、即身成仏の大功徳を得るということです。
 『阿仏房御書』には、
 「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり。多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ」(同 七九三)
と御教示です。
 私たちは、御本尊様に御供養申し上げることにより、自らの宝塔を聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝をもって飾っているのです。
 また、法施である折伏について言えば、私たちが信心していない人を折伏し、大聖人様の正法に導いて、その人の迷いの人生に明かりを灯せば、その功徳は我が身をも照らすということです。
 私たちは財施・法施にわたる御供養を常に心がけ、日々勤行・唱題・折伏に精進していくことが肝要です。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「苦しみの境界を打ち破っていくのが法華経であります。(中略)お題目の力は、煩悩・業・苦の苦しみから法身・般若・解脱の三徳に転ずる、広大無辺なる功徳力を具えているのであります。
 ただしこれも、我々の『信』がなければできません。理屈の上では、仏様はそれだけのお力を持っていらっしゃるけれども、それを我が身に得ていくためには、我々に信心がなければならないのです」 (大白法 九三六号)
と仰せられ、また、
 「私どもは『魔競はずば正法と知るべからず』との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる大難が競い起きようが、それを奇貨とし、決然として障魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を遂げることができるのであります」(同 九四一号)
と御指南されています。
 自他共に即身成仏の本懐を遂げるためにもさらなる折伏に邁進し、各支部共に本年の折伏誓願目標を完遂し、また年末の特別御供養にも、真心をもって取り組んでまいりましょう。

  次回は『春之祝御書』(平成新編御書 七五八)の予定です

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