大白法992号 平成30年11月1日より転載

御書解説223 背景と大意

富木殿御返事

御書759頁 別名売袈裟奉上仏者事

一、御述作の由来

 本抄は、文永十二(一二七五)年二月七日、大聖人様が御年五十四歳の時、身延において述作され、下総(千葉県)の富木常忍殿に与えられた御消息です。冒頭に「帷〈かたびら〉一領給び候ひ了んぬ」とあるように、富木常忍が大聖人様に御供養された帷についての御礼の書です。御真蹟は、千葉県市川市の中山法華経寺(日蓮宗)に現存しています。
 「帷」とは裏地のない一重の着物を言いますが、本抄中に記される帷は、
 「齢九旬にいたれる悲母の、愛子にこれをまいらせさせ給ひ、而して我と老眼をしぼり、身命を尽くせり」
と述べられている通り、九十歳になる富木常忍の母が、身命を尽くして愛する息子・富木常忍のために縫われたものであります。
 富木常忍は、そのような我が子への篤い思いが込められた着物を大聖人様に御供養されたのであり、大聖人様もそれほどまでに大切な着物を御供養された富木常忍の尊い志や、富木常忍の母の思いには報い難いけれども、「この帷を着て、日天の御前で、富木殿の母や富木殿の志を申し上げるならば、必ずや帝釈・梵天・諸天善神の知るところとなろう」と仰せられ、法華経の行者に対する真心の御供養の功徳は、諸天善神に通じて、実生活における冥加として現われることを御教示されています。

二、本抄の大意

 初めに、帷一領を御供養されたことに対する御礼が述べられます。
 続いて、以下の仏教説話を挙げられます。(注1)すなわち、仏弟子の中に一人の比丘(僧侶)がいた。世の中は飢饉で、仏は食事も事欠く有り様であった。そこで比丘は自らの袈裟を売って得たお金を仏に奉った。仏からそのお金の由来を聞かれた比丘は、経緯をありのままに述べた。すると、仏は「袈裟は三世の諸仏が悟りを得るための法衣であるから、私にはその尊い対価の恩に報いることができない」と辞退された。比丘が「それではこの袈裟の対価をどのようにしたら宜しいでしょうか」と申し上げると、仏は「この袈裟の対価を、あなたの母親に差し上げなさい」と仰せられた。比丘は「仏は三界の中で最も尊い方であり、一切衆生の眼目です。たとえ十方世界を覆う衣であっても、大地に敷くほどの袈裟であっても、よく報じられるでしょう。それに対し、私の母に智慧がないのは牛のようであり、羊よりも愚かです。いったいそのような母が、どうして袈裟の信施に報いることができましょうか」と申し上げた。すると、仏はかえって詰問され、「あなたの身は母親が生んだのではないか。故にこの袈裟の
恩に十分報いることができるであろう」と仰せられた、と。
 この説話を通して、大聖人様は、富木常忍に袈裟の尊いことと、親の恩の大きいことを示されます。
 次いで、大聖人様は、このたび富木常忍が御供養された帷は、九十歳に及ぶ悲母が、大切な我が子・富木常忍のために、精魂を傾け、身命を尽くして作られたものであり、富木常忍は子の身としてこの帷の恩は報じ難いと思って私に御供養されたのであろう。日蓮も仏と同様、その大恩を報じ難いけれども、この帷を着て、日天の御前で詳細を申し上げれば、必ず梵天や帝釈等に通じる。帷は一つでも、さらに十方世界の諸天善神がこのことを知られることになる。そうすれば露を大海に入れ、また土を大地に加えるように、その大功徳に浴することは生々世々に絶えることがないであろうと述べられ、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

知恩報恩の大事

 大聖人様は多くの御書の中で、私たちが人として、そして仏法を行ずる者として、生きていく上で被るすべての恩を知り、それらの恩に報いていくことの大切さを御教示されています。
 恩について仏法では、おおむね四つにまとめて示されています。すなわち、父母の恩、一切衆生の恩(もしくは師匠の恩)、国王・国主の恩、そして三宝の恩の四つです。
 父母の恩とは、この世に私たちを生み育ててくれた恩を言います。
 大聖人様は『四恩抄』に、
 「六道に生を受くるに必ず父母あり。(中略)然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母なるか」(御書 二六七)
と仰せられ、今生での父母が私たちを生んでくれた上に、法華経への信心に導いてくれたことは、梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて三界、四天に恭敬されることよりも、父母への恩が重大であることを教えられています。
 二に、一切衆生の恩について同抄に、
 「一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発こし難し・又悪人無くして菩薩に留難をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき」(同)
と御教示せられています。
 つまり、一切の衆生がいなければ、衆生無辺誓願度という化他救済の誓願を行じることは困難です。また修行を妨げる悪人たちがいなければ、自ら発心修行して功徳を増長し、罪障を消滅することができないと示され、一切衆生を救済することこそ、その恩に報いる道であると御指南されています。
 さらに、社会にあっては誰一人として独りで生きていくことはできません。必ず他者に支えられて生きているのであり、その恩を知る必要があります。
 三に、国王・国主の恩とは『四恩抄』に、
 「天の三光に身をあたゝめ、地の五穀に神〈たましい〉を養ふこと、皆是国王の恩なり。其の上、今度法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値ひ奉れり。争でか少分の怨に依っておろかに思ひ奉るべきや」(同)
と仰せられ、平穏に生活を送れるのも国主の恩恵によることを示されつつ、さらにその上、今生に法華経を信仰することにより国主から迫害を被って生死を離れ(罪障消滅の功徳を成じ)、即身成仏を遂げることができるのも国主の恩であると仰せです。
 日本の現代社会は、立憲民主主義であり、国主の恩徳は国家が大きな役割を果たしています。
 四に、三宝の恩とは、仏・法・僧の三宝(衆生を成仏に導く三つの宝)により被る恩恵を言います。
 大聖人様は『四恩抄』に、
 「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(同 二六八)
と仰せられ、最も大切な三宝の恩を報ずることなくして成仏は叶わないことを御教示されています。さらに『報恩抄』には、
 「今度命ををしむならばいつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふる」(同 一〇二九)
と仰せられ、その恩徳を正しく報ずるには「法華経の行者」として身命を賭すべきであり、迫害を加えられ、難に遭うことによって真実に恩を報ずる者となることを明かされています。

真心からの御供養の功徳

 本抄に限らず大聖人様は、門下よりの真心の供養に対し、御礼と共に御供養の功徳の大きさを種々御教示くださっています。
 『白米一俵御書』には、
 「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(同 一五四四)
と、私たちを成仏に導いてくださる仏法僧の三宝に、御報恩の真心をもって御供養を供え奉ることが大切であることを仰せられています。
 そして本抄では、
 「帷一つなれども十方の諸天此をしり給ふべし。露を大海によせ、土を大地に加ふるがごとし。生々に失せじ、世々にくちざらむかし」
と仰せられています。一滴の露が大海に溶け込み不二となり、ひとかけの土が大地と一つになるように、大聖人様に対し奉る絶対の信をもととして、信心修行に励み御供養の誠を尽くすならば、その志は久遠元初の仏すなわち末法の御本仏・日蓮大聖人の御もとに届き、その功徳は生々世々に亘り、けっして朽ちることはないのです。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「仏恩に報い奉る途〈みち〉は、ただ御本仏大聖人の御遺命のままに、一天四海本因妙広宣流布に我が身を捧げていくことであります。すなわち、一人ひとりが地涌の菩薩の眷属として、持てる力を出しきって折伏を実践し、広宣流布に資していくことであります」(大白法 八六一号)
と、御本仏の御恩徳に対して、勇猛果敢な折伏の実践をもって報いていくべきことを御指南あそばされています。
 真の御報恩の志を奮い立たせて異体同心して精進してまいりましょう。

 次回は『立正観抄』(平成新編御書 七六六)の予定です

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(注1)信施を受けるに価する比丘について宝梁経(大正蔵11巻640b・国訳宝積部6-225)に説かれており、その要旨を摩訶止観に引用する中に「云何が是の人能く供養を受けんと。仏の言く、是の人、衣を受け、用いて大地に敷き、摶食〈たんじき〉を受くること須弥山の若くなるとも、亦能く畢〈ことごと〉く施主の恩を報ぜん。」(止会上225)とある。また止観該当部分の宝梁経には「迦葉、譬えば三千大千世界の有らゆる大海の如きも尚竭尽す可くとも、而も此の施主の得る所の福報の尽すを得可からざるなり」(大正蔵11巻640b・国訳宝積部6-225)とあって、本書中に引用の譬喩の用語と似た用例がある。ただし、内容は全く異なっている。

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