大白法1000号 平成31年3月1日より転載

御書解説226 背景と大意

曽谷入道殿御返事

御書794頁 別名方便品長行事

一、御述作の由来

 本抄は、文永十二(一二七五)年三月、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、身延において認められ、下総の曽谷入道に与えられた御消息です。内容から「方便品長行事」との異称があります。
 対告衆の曽谷入道は、下総国八幡庄〈やわたのしょう〉曽谷郷(現・千葉県市川市)の領主・曽谷二郎入道のことで、大聖人様より、教信御房、法蓮上人とも称された檀越です。文応元(一二六〇)年頃の入信と伝えられ、同地の近隣には富木入道や太田入道などの檀越がいます。
 曽谷入道は、大聖人様よりたびたび、漢文体の御手紙を戴いており、またその内容も「台密(日本の天台宗で伝える密教)破折」「総別の二義」などの法門が教示されていることから、教養が高く、仏法にも造詣が深い人物であったと推察されます。
 その一方で、曽谷入道は大聖人様が文永十年四月に著された『観心本尊抄』に、
 「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく」(御書 六五五)
と説示された御真意を拝しきれず、一品二半(『寿量品』とその前後の半品)以外の迹門(『方便品』)などは読誦する必要がないとの考えを持つ時期がありました。
 『観心本尊抄』の述作から二年後、この曽谷入道の誤りを耳にされた大聖人様は、『寿量品』と共に『方便品』(迹門)も読むべきことを諭されるために、『方便品』の長行(注1)を書写されて入道に与えられたのです。その時に添えられた書状が本抄です。
 ところが、曽谷入道はこの大慈大悲の御教導を理解できなかったのか、数力月後に大聖人様から、
 「教信の御房、観心本尊抄の『未得』等の文字に付いて迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候か」(同
 九一四)
と厳しく叱責されています。右の文から推測するに、入道は建治元(一二七五)年十一月のこの時まで迹門不読の考えを持っていたと考えられます。曽谷入道の誤りは、大聖人様の読まれる迹門(『方便品』)と像法時代における天台所立の迹門とが異なることを知らず、法体と修行を混同したところにあります。
 曽谷入道は後年、大聖人様から、
 「貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」(同 一五六四)
と仰せられていることや、『観心本尊得意抄』以後の御消息に、迹門不読に関する御教示が見られないことから、その後、迹門不読の我見を改めたものと思われます。

二、本抄の大意

 冒頭、大聖人様は曽谷入道に対し、『方便品』の長行を書き送ったことを述べられて、先に送った『寿量品』の自我偈と共に読むように教示されます。
 次いで、法華経の文字はすべて生身妙覚の仏であるが、我々は凡夫であるからその肉眼ではただの文字に見えるのであると述べられます。
 続いてその例として、餓鬼にはガンジス川の水が火に見え、人間には水に見え、天人には甘露に見えるというように、同じ水でも見る者の果報(過去世の業因による境界の相違)に従って見え方が別々であることを述べられます。
 続いて、これと同じように法華経の文字は目の不自由な人には見えず、人間の眼(肉眼)には文字、声聞・縁覚の二乗(慧眼)には虚空、菩薩(法眼)には無量の法門、仏(仏眼)には法華経の一文字一文字が金色の釈尊に見えると仰せられます。その経証として法華経『見宝塔品第十一』の、
 「即持仏身」(法華経 六二四)
の文を引かれます。そして、誤った見方をする者は、このように有り難い法華経の経文を誹謗すると述べられます。
 最後に、異念なく一心に霊山浄土を期して信心に精進するよう激励されると共に、六波羅蜜経に説示される「心の師とはなっても、心を師としてはならない」との誡めを挙げて、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

一水四見〈いっすいしけん〉の譬え

 大聖人様は本抄において、
 「餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれど果報に随って別々なり」
と仰せです。これは「一水四見」と言われる譬えで、同一の物でも見る人の境界によって異なって認識されることを言います。本来、同じ水でも餓鬼は火と見、人は水と見、天人は甘露と見、魚は住処と見るという四つの見方を言いますが、本抄では第四の魚を省略されています。

 『方便品』読誦の意義(所破・借文)

 また、大聖人様は本抄において、『方便品』の読誦を不要と考えていた曽谷入道に対して、読誦するよう教示されています。
 大聖人様はこの他『月水御書』にも、
 「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」(御書 三〇三)
と、方便・寿量の両品読誦を御教示です。
 『方便品』を読誦する意義には、所破と借文の二義があります。一に所破とは『方便品』に説かれた義(所詮の義)を破す意であり、二に借文とは『方便品』の文(能詮の文)を借りて本門の義を顕わす意です。
 @体内・体外
 また法華経の迹門には、本門の体内と体外という二意があります。
 一には、本門『寿量品』において久遠の本地を開顕される以前の迹門の意で、これを「体外の迹門」と言い、インドに誕生した始成正覚の釈尊が説かれた迹門のことを言います。
 二には、『寿量品』における顕本以後の迹門、すなわち本門『寿量品』の体内に会入された迹門の意で、これを「体内の迹門」と言います。
 例えば、「体外の迹門」は、池に映った月の影(迹門)を本物の月と思い込み、天に本当の月(本門)があることを知らないようなものです。また「体内の迹門」は、月の本体が天にあることを知った上で、池に映った月を見る立場です。
 これらを踏まえた上で、『方便品』読誦の意義を拝すと、所破・借文にそれぞれ二意が存します。
 A所破における二意
 まず、所破における二意とは、一には大聖人様が『観心本尊得意抄』に、
 「在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は、今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。設ひ天台・伝教の如く法のまゝありとも、今末法に至っては去年の暦の如し」(同 九一四)
と仰せのように、天台過時の迹である「体外の迹門」を去年の暦として破する意です。
 二には大聖人様が『十章抄』に、
 「設ひ開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり、体内の実に及ばず」(同 四六八)
と御教示のように、体内の迹門と言っても、実の本門には及ばない(池に映った月には諸物を照らす用きはない)ことから、「体内の迹門」を破すために読誦する意です。所破における『方便品』読誦の正意は、まさにここにあります。
 B借文における二意
 次に、借文における二意とは、一には迹門『方便品』の「諸法実相」の文を借りて、近く久遠五百塵点劫の本果(久遠実成)の仏の所証の法を助け顕わす意であり、二にはこの「諸法実相」の文を借りて、遠く久遠元初の本仏所証の法を助け顕わすために読誦する意です。借文の正意は、まさに久遠元初の本仏所証の妙法を助顕するところにあります。
 本宗の勤行においては、助行である『方便品』と『寿量品』の両品を読誦し、正行の題目を唱えるところに功徳が具わることを知らなければなりません。

 四、結び

 大聖人様は本抄の末文に、六波羅蜜経の「心の師とはなるとも心を師とせざれ」との誡めの文を引かれ、曽谷入道に対し我見を捨て、大聖人様の教えに随って正しく仏道修行に励むよう諭されています。
 御法主日如上人猊下は、
 「正しい心は、正しい法に触れなければ 生まれてこないのです。よく『心のままに生きていく』と言う人がいますけれども、皆が心のままに生きたならば、好き勝手なことばかりして、大変なことになってしまいます。では、その正しい心がどこから生まれてくるのかと考えると、正しい法である妙法の縁に触れて初めて、正しい考え方や正しい心が生まれてくるのであり、それが世の中に繁栄をもたらすのです」(大白法 七二三号)
と御指南されています。
 私たちは成仏の境界を得るためにも、自分本意の心を拠り所とするのではなく、御本仏日蓮大聖人様の仏法を心から信じ、血脈付法の御法主上人猊下の御指南に信伏随従して、勤行・唱題・折伏と、誤りなく日々の仏道修行に精進していくことが肝要です。

  次回は『こう入道殿御返事』(平成新編御書 七九五)の予定です
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(注1)大聖人は、『方便品』のうち、広開三顕一(法華経九九〜一〇七)を説く箇所を指して方便品の長行と仰せられている(日乾目録・昭和定本2748)。

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