大白法1002号 平成31年4月1日より転載

御書解説227 背景と大意

こう入道殿御返事

御書795頁 別名国府入道殿御返事

一、御述作の由来

 本抄は、文永十二(一二七五)年四月十二日、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、佐渡から身延の大聖人様のもとに参詣した国府入道とその妻(尼御前)へ与えられた御消息です。
 本抄の御真蹟は、愛知県あま市の妙勝寺(日蓮宗)に全三紙が現存していますが、第三紙目の初め十六字「候。又蒙古国の日本にみだれ入る時は」が欠損しています。
 大聖人様は文永十一年三月、二年五ヵ月に及ぶ佐渡配流を御赦免となり、鎌倉へ帰られ三度目の国諌をなされました。その後、同年五月に身延に入山されましたが、佐渡在島中、阿仏房夫妻と共に大聖人様をお助けした国府入道夫妻は、大聖人様の身延入山後間もなくの文永十一年六月、身延の大聖人様のもとに参詣されています。本抄はその翌年の四月十二日、再び佐渡より御供養の品々を携えて、身延の大聖人のもとに詣でた国府入道と、大事な夫を二度も送り出した尼御前の信心を賞賛されています。

二、本抄の大意

 まず、人の心は定めのないものであるから、移る心も定まらないが、佐渡の国にあった時にご信用くださったことでさえ不思議であると思っていたのに、佐渡の国より遠くこの身延にまで、夫の入道殿を遣わされたお志は、国を隔て年月を重ねれば、弛む心もあろうかとも懸念していたが、いよいよ信心の色を増し、功を積まれることは、ただ一生や二生の因縁ではないであろう、と述べられます。
 そして、この法華経は信じ難いので、仏は、人の子となり、父母となり、妻となるなどして、衆生に信じさせようとされるのである。法華経『譬喩品第三』の、
 「其中衆生 悉是吾子(其の中の衆生悉く是れ吾が子なり)」(法華経 一六八)
の経文の通りであるならば、仏は入道殿と尼御前の慈父であり、日蓮はあなた方の子であることに相違ないが、しばらく日本国の人を助けようと、国の中央にいるのである、と仰せられます。
 そして、蒙古国が日本に乱れ入る時には、この身延へおいでなさい。また、ご子息もないことだから、年を取った末には、こちらへ移ることをお考えなさい。いずれの地とも定めはないけれども、ただ仏になることこそ終の栖〈すみか〉であると思い切られるよう述べられて本抄を結ばれています。
 なお追伸に、国府入道が佐渡から携えてこられた御供養の品々を挙げられて、その御礼とされています。

三、拝読のポイント

御本仏の大慈大悲

 本抄で大聖人様は、
 「此の法華経は信じがたければ、仏、人の子となり、父母となり、め(妻)となりなんどしてこそ信ぜさせ給ふなれ」
と、この法華経は信じ難い教えであるから、仏は大慈悲を起こしてその人の子や父母、妻に姿を変えて信じさせるのであると仰せです。そして、子供のいない国府入道夫妻に対して、
 「其中衆生悉是吾子の経文のごとくならば、教主釈尊は入道殿・尼御前の慈父ぞかし。日蓮は又御子にてあるべかりける」
と、日蓮はあなた方ご夫妻の子供に違いないと仰せになられ、さらに、
 「子息なき人なれば御としのすへには、これへとをぼしめすべし」
と、晩年は大聖人様のもとに移ってくるよう仰せられています。
 これらの御教示から、主師親の三徳を兼備される末法の御本仏大聖人様の大慈大悲を拝することができます。

大聖人様へのお給仕と外護

 大聖人様は佐渡へ御配流になった時の様子について、『国府尼御前御書』に、
 「されば身命をつぐべきかんて(糧)もなし、形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の島にはなたれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだへをまじえ、くさをつみて命をさゝえたりき」(御書 七四○)
と、佐渡は法然の念仏の信者が充満しており、鎌倉よりもなお大聖人様を憎む者が多い有り様で、大聖人様は食料も防寒着もないまま配所に置かれ、雪に肌をさらし、草を食べて命を長らえたと仰せられています。
 そのような中、同書に、
 「尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり」 (同)
とあるように、国府入道夫妻は大聖人様に人目を忍んで食べ物を届けてお給仕するなど、外護に努められました。
 これは『千日尼御前御返事』に、
 「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が菴室に昼夜に立ちそいて、かよう人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつをしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生まれかわりて有るか」 (同 一二五三)
と仰せの阿仏房夫妻のお給仕の姿と同様であり、国府入道夫妻と阿仏房夫妻が大聖人様をはじめ、日興上人や御弟子方の佐渡での御生活にどれほど寄与されたか、計り知れません。
 さらに、『国府尼御前御書』に、
 「或時は国のせめをもはゞからず、身にもかわらんとせし人々なり」(同 七四〇)
と仰せのように、国府入道夫妻は、佐渡における為政者の責めをも憚らず、大聖人様への理不尽な迫害に対し、自らの身をもってお護りしようとしたのです。このような国府入道夫妻や阿仏房夫妻らの外護を受けて大聖人様は、
 「さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すゝむあしもかへりしぞかし」(同)
と、佐渡への流罪は辛かったが、赦免となり佐渡から鎌倉へ帰る時は、後ろ髪を引かれる思いであったと記されています。
 大聖人様が佐渡から鎌倉へ帰られ、さらに身延へ入られてからも、国府入道夫妻・阿仏房夫妻の大聖人様に対する帰依の心は変わることなく、赦免から三ヵ月後の六月には、国府入道と阿仏房は身延の大聖人様のもとを訪れています。その際、大聖人様は参詣された国府入道の尼御前に、
 「いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つかいにてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ」(同)
と仰せになり、尼御前の姿はここにはないが、心はご主人の入道と共にここへまいっていると仰せられています。
 さらに続けて大聖人様は、
 「日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」(同)
と仰せられています。
 それより一年も経たないうちに、国府入道と阿仏房は、再び身延の大聖人様のもとに参詣されています。その折に賜ったのが本抄です。
 その際の身延での様子については、『是日尼御書』に、
 「からの国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもひしに、又今年来てなつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。ふでをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし」(同 一二二〇)
と記されており、大聖人様は佐渡から身延に参詣した国府入道と阿仏房が1カ月間、菜を摘み、水を汲み、薪をこるなどして給仕されたこと、そしてまたその功徳が尼御前に具わることを御教示です。
 現在においても、大御本尊様に対する絶対の信を根本として総本山に登山し、また所属寺院に参詣して信行を磨いていくことが、成仏の境界を得る上でたいへん重要です。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「折伏をしたら信心の基本を正しく教えることが大事でありまして、朝夕の勤行を教え、戒壇の大御本尊様への登山参詣を教え、御講への参詣を教え、折伏することを教えていく、すなわち自行化他の信心を教えていく、これが育成であります。折伏はしたが、育成をないがしろにしてしまえば、折伏された人にとっても不幸であり、折伏した人もまた、無慈悲の侮りを受けることになります。折伏をして入信した人達が、御本尊様の功徳を頂き、幸せな境界を築けるように教え導いていくのが育成でありますから、入信後の育成を欠いてはならないのであります」(大白法 九一七号)
と御指南されています。
 私たちは、身口意の三業にわたる仏道の実践を心がけ、折伏した相手が入信したならば、勤行・唱題・折伏という日々の自行化他の実践と登山参詣の大事を教えて、育成を図っていくことが肝要です。

  次回は『釈迦御所領御書』(平成新編御書 八〇四)の予定です


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