大白法1004号 令和元年5月1日より転載

御書解説228 背景と大意

釈迦御所領御書

御書804頁

一、御述作の由来

 本抄は、前後の御文が欠損しており、御述作の年代、対告衆は不明ですが、御真蹟断簡一紙十行は京都の妙蓮寺(日蓮宗)に現存しています。
 大聖人様は佐渡以前(佐前)の鎌倉期の御化導において、まずは教主釈尊とその出世の本懐である法華経を信仰することを説かれました。
 それは当時、一般民衆に広く浸透し蔓延していた西方極楽浄土に往生するという念仏信仰(他土無縁の阿弥陀仏への信仰)を時期不相応の謗法と破折された、権実相対判の御化導と拝すことができます。
 本抄は、釈尊が裟婆世界の主君であることなどが述べられており、念仏信仰を破折された佐前の御教示と軌を一にする内容であることから、文永期の御書とされています。

二、本抄の大意

 初めに、この娑婆世界は我ら衆生の本師である釈迦如来の所領であると述べられます。そして、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は共に仏弟子ではあるけれども、在家の優婆塞・優婆夷は外道にも似ていると仰せられ、これに対して出家の比丘・比丘尼は真の仏子であることを述べられます。
 次に、大悲経に説示された意義より、釈尊が大梵天や第六天、帝釈、四大天王、人王等に対して、三千大千世界を譲られたこと、そして、この娑婆世界を領知して、真の仏子である比丘・比丘尼を供養すべきことを述べられ、その説法の時に梵天や帝釈等が仰せに随ったことを教示されます。
 そして、正直捨方便のお経である法華経『譬喩品第三』の、
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり」(法華経 一六八)
の文を引いて、この三界(欲界・色界・無色界)は釈迦如来の所領であると述べられます。
 また、『如来寿量品第十六』の、
 「我常に此の娑婆世界に在り」(同 四三一)
の文を引いて、五百塵点劫の昔より今に至るまで娑婆世界は釈迦如来の国土であると述べられます。
 そして、仏滅後一百年に出現した阿育大王がこの南閻浮提を三度僧に付嘱したことを述べられます。
 さらに、付嘱された僧の一人である南岳大師が日本に聖徳太子と生まれ変わり、この国の主となったことを記し、太子以降の日本の王は皆、南岳大師の末葉であると述べられたところで、本抄は終わっています。

三、拝読のポイント

三徳兼備の御本仏

 大聖人様は、当抄において、この娑婆世界が釈迦如来の所領であると述べられますが、その根拠とされた『譬喩品』の文には、
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す」 (同 一六八)
と説かれています
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり」とは主君の義、「其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり」とは父子の義、「而も今此の処諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す」とは師匠の義を表わしており、教主釈尊は娑婆世界の衆生にとって主師親の三徳を備えられた大恩ある仏であることを明かされているのがこの経文です。
 三徳兼備の釈尊について、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「『教主釈尊』の名は一代に通ずれども、其の体に六種の不同あり。謂わく、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、之を思え。第六の文底の教主釈尊は即ち是れ蓮祖聖人なり」(御書文段 二七〇)
と仰せです。すなわち、末法今日における三徳兼備の仏とは、久遠元初の御本仏・日蓮大聖人様を指すのです。
 故に『一谷入道女房御書」には、
 「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に堕ちん事決定なるべし」(御書八三〇)
と御教示されています。

娑婆世界こそ釈尊の本国土

 本抄において、『寿量品』の、
 「我常在此 娑婆世界」(法華経 四三一)
の経文を引いて、久遠五百塵点劫以来、この娑婆世界こそ釈迦如来の本国土であると説かれています。仏は西方の他土など、どこか別の所におられるのではなく、久遠以来、常にこの娑婆世界にあって化導されているのです。つまり、この娑婆世界がそのまま仏様のお住まいであり、まさに娑婆即寂光こそ実相なのです。
 また『一生成仏抄』に、
 「浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」(御書 四六)
と御教示のように、悟りの仏界と迷いの九界は実は別々のものではなく、一身の中に具わる一体のものであり、これらはすべて自身の心の一念にあるのです。
 『御義口伝』に、
 「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり」 (同 一七九四)
と説かれているように、末法の今日は御本仏大聖人様の在所が寂光土であり、その妙法を唱える我ら衆生の一念に娑婆即寂光が具わるのです。
 故に、成仏の境界とは、どこか別の所にあるのではなく、その当体は、実は自分自身の命にあることに思いを致し、唱題と折伏になお一層励み、過去の罪障を消して境界を開いていくことが肝要です。

法華経深縁の日本国は御本仏の御所領

 本抄において、南岳大師が日本に聖徳太子として再誕し、この国の主となったことを記され、太子以降の日本の王は皆、南岳大師の末葉と述べられていますが、推古天皇の御代の摂政であった聖徳太子は、仏法を国の根本と定めて以来、特に法華経を重んじ、鎮護国家の基としました。
 一代仏教の中で、釈尊出世の本懐である法華経を重んじた聖徳太子の事績は、まさに観世音菩薩の後身として法華三昧を得られた中国の南岳大師の再誕であることを証明するものと拝されます。
 また日本の歴代天皇は、その当時において、聖徳太子の精神を継いで法華経を重んじたことから、南岳大師の末葉と述べられたことが看取されます。
 したがって、日本は、仏法有縁の南閻浮提の中でも、特に法華経に縁の深い国であることが明らかです。
 なお、日寛上人は次の三義の上から、日本国が本門三大秘法広宣流布の根本の妙国であることを『依義判文抄』(六巻抄一一一)に御教示されています。
 一つ目は、所弘の法を表わして日本と名づける意。「日天子の、能く諸の闇を除くが如く」との経文や、「日蓮が曰く、日は本門に譬うるなり」「名の目出度きは日本第一」等の大聖人様の御金言、さらに日は文底独一本門に譬えることを根拠とされています。
 二つ目は、能弘の人を表わして日本と名づける意。日本が大聖人様の本国であることを根拠とされています。
 三つ目は、本門広布の根本を表わして日本と名づける意。日はすなわち文底独一の本門三大秘法を顕わし、本はすなわちこの秘法広宣流布の根本なることを顕わしているからです。
 以上の意義より、日本国は本因妙の教主日蓮大聖人様の本国にして御所領であり、本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国であることが明らかです。

四、結び

 『御講聞書』に、
 「本有の霊山とは此の娑婆世界なり。中にも日本国なり。法華経の本国土妙娑婆世界なり。本門寿量品の未曽有の大曼荼羅建立の在所なり」(御書 一八二四)と説かれているように、末法の御本仏大聖人様が出現された日本国、就中本門三大秘法の所在たる本門戒壇の霊地、つまり総本山大石寺こそ下種仏法の本国土なのです。
 また『南条殿御返事』に、
 「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」 (同 一五六九)
と示されているように、大聖人様の御在世当時は、身延の大聖人様の御もとに参詣することが「此の砌に望まん」意義でありましたが、御入滅後は、その御魂魄たる本門戒壇の大御本尊と、血脈付法の御法主上人猊下在す総本山へご登山申し上げることが「此の砌に望まん」意義となるのです。
 令和の世となって、世界中の人々が下種仏法の本国土である総本山大石寺に登山参詣できるよう、折伏に励んでまいりましょう。

  次回は『依法不依人御書』(平成新編御書 八〇五)の予定です

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