大白法1006号 令和元年6月1日より転載

御書解説229 背景と大意

依法不依人御書

御書805頁

一、御述作の由来

 本抄は、前後の御文が欠損しており、御述作の年代、対告衆については不明ですが、御筆跡や内容から推しておそらく文永期に著された御書と拝されます。
 御真蹟の断簡は池上本門寺(日蓮宗)などに現存しています。

二、本抄の大意

 まず伝教大師の、
 「行ありて学生ならざるは国の用なり。智行共に備ふは国の財なり。智行共にかけたるは国の賊、国人の中の牛なり」 (山家学生式)
との文を援用され、爾前権教である四十余年の経々を習い行じて生死の苦しみを離れようとする学者等は、自身が謗法となるのみならず、一切衆生を皆謗法となす因縁であることを述べられます。
 続いて、法華経の法門は、震旦国(中国)に仏法が渡って二百年頃、天台智者大師が一切経の勝劣浅深を分別して示されたこと。日本国では仏法が渡って二百余年、伝教大師が天台の本疏三十巻(法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻)を見て初めて顕わしたことを述べられ、この法義が仏意に適った法門であれば、四十余年の諸経の行者と、爾前権経を依経として法華経を信ぜざる諸宗の人々は、皆謗法の悪因縁となることを重ねて示されます。
 次に、一仏の名号には諸仏の功徳は納まらないが、法華経の五字に諸経の功徳が納まるのか、との問いを設けられ、法華経にこそ諸経の功徳が納まることを明かされます。
 しかし、世間の人々は法門の是非を弁えないので、人数の多いほうに付いて一人の実義を捨ててしまったり、邪宗の高僧等の言い分に従って無位無権の者の実義を捨ててしまう。仏が涅槃経において「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)と戒められていても、末代の諸人は「依人不依法」(人に依って法に依らず)となる。また、仏が「依了義経・不依不了義経」(了義経に依って、不了義経に依らざれ)と制誠しているのに、濁世末法の衆生は「依不了義経・不依了義経」の者となっていると示されます。
 そして、当時の仏教界における法門の立て方を見ると、華厳宗では華厳経がもととなって一切経を統括していると説き、法相宗や三論宗なども皆、自宗の依経をもととして諸経を解釈している。
 華厳宗の人が多いと言っても、その教義は澄観(唐代華厳宗の第四祖)の教えをもととしているので澄観の心を出るものではない。そのため華厳宗の人々は諸経を読むといっても、ただ澄観の心を読むに過ぎず、その他の諸宗の人々も同様であると述べられ、このように一人の妄説が諸人に伝わるのであり、これは一人の為政者の失政が万民を苦しめるようなものであると仰せられます。
 さらに、当世の念仏者が諸経諸仏を念じて修行していると思っても、所詮は中国の道綽や善導、日本の法然等の心を過ぎるものではなく、道緯の「未有一人得者」の釈や、善導の「千中無一」の説、法然の「捨閉閣抛」の教えが誤りであるならば、たとえ一代聖教を暗唱するような念仏者であっても、阿弥陀の本願にも捨てられ、諸仏の御意にも背き、法華経の「其の人命終して阿鼻獄に入らん」の経説のままに堕地獄の果報を得ることは疑いないことを述べられ、その原因は、「依法不依人」の仏の制誡に背いて、人に依る失によると教示されます。
 次に、人に依る失というならば汝はなぜ天台・妙楽・伝教大師に依るのか、という問いを設けられ、天台・妙楽・伝教大師を用いているのではなく、ただ天台・妙楽・伝教大師の引かれている証文に依るのである、と依法不依人の戒めに基づくとらえ方を示されます。
 続いて、例えば国を治める人が政に当たって、三皇・五帝等の三墳・五典に基づいて賞罰を行うならば聖人・賢人と言われ、人を罰する罪によって悪道に堕ちることはないが、重罪の者を私情によって軽罪にしたり、懸命に奉公する者に個人的な憎しみをもって賞めることをしなければ、現世には佞人〈ねいじん〉と言われ、国も破れ、未来には悪名を流すことになると述べられて、文書に依って人に依らざるか、人に依って文書に依らざるかの違いによって賢人か愚人かの違いがあることを示されます。
 そして、当世の僧俗の多くは人師の言葉をもととして経文をもととせず、中には日蓮は善導和尚より劣ると言う者もいることを述べられ、次の文章の途中で、本抄は終わっています。

三、拝読のポイント

依法不依人の重要性

 本抄の題号にもある「依法不依人」とは、涅槃経に説かれる「法の四依」の一つです。「法に依って人に依らざれ」と読み、仏法の勝劣浅深を正しく認識し修行する上では、仏の説かれた法(経文)に依るべきであり、人師・論師の言葉に依るべきではないことを戒められたものです。
 大聖人様も『開目抄』に、
 「最後の御遺言に云はく『法に依って人に依らざれ』等云云。不依人等とは、初依・二依・三依・第四依、普賢・文殊等の等覚の菩薩、法門を説き給ふとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」 (御書 五五八)
と説かれ、また『総勘文抄』には、
 「涅槃経に云はく『法に依って人に依らざれ』云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還って仏法を滅す」(同 一四二〇)
と、仏の戒めを疎かにする故に、仏法を習学しているつもりが、反対に滅ぼしてしまっていると御教示されています。
 また『頼基陳状』には、
 「誰人か時の代にあをがるゝ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として『法に依って人に依らざれ』と見えて候。人師にあやまりあらは経に依れと仏は説かれて候。御辺はよもあやまりましまさじと申され候」(同 一一二八)
と仰せられ、仏法を信じ修行していくには、正しい法に依るべきで、法を無視した人の言葉に依ってはならないと警鐘を鳴らされています。

末法適時の如説修行とは折伏

 今日、日蓮正宗以外の宗教は、すべて仏法の道理を無視し、人師が己義、我見で解釈した教義のもとに成り立っています。
 また、法華経の経文から逸脱した邪法邪師の邪義による謗法が世に蔓延する故に、様々な不幸を呼び、種々の災難を招いていることを知り、仏の教えのままに如説修行の実践に努めてまいりましょう。
 『寺泊御書』には、
 「或人日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義〈あらぎ〉を立て難に値ふと。或人云はく、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云はく、我も此の 義を存ずれども言はず」(同 四八六)とあり、当時の人々は、大聖人様の弘教の仕方が強攻なために難に遭ったのだと非難していたことがうかがえます。
 私たちが正しい信心を伝えるために折伏する時、寛容な布教をすれば難に遭わないのではないかと思う場面もあるかも知れません。あるいは自分は静かに信心したいので、他人にまで信心を勧める必要はないのではないかと考える人もいるかも知れません。しかし、それでは世情はますます荒廃し、人心も乱れていくばかりです。否、大聖人様の教えのままに如説修行を実践する正しい信心とはなりません。
 大聖人様は、『如説修行抄』に、
 「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり」 (同 六七〇)
と仰せられ、また、
 「末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐〈おわ〉せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音〈こえ〉も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し」(同 六七三)
と仰せのように、末法今時の如説修行とは折伏の実践であり、そこには必ず三類の強敵が現われることを御教示です。
 謗法が充満する世の中にあって、正しい信仰の大切さを訴えていくことはけっして容易ではありません。しかし、大聖人様の、
 「一期過ぎなむ事は程無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」(同 六七四)
との仰せのままに謗法を破折し、堂々と正法正義を訴えていくところにこそ真の即身成仏の大果報を得ることを確信し、勇気をもって精進いたしましょう。

四、結び

 法の正邪に依らず、人についていって誤った信仰をしている例には、正信会、顕正会、創価学会といった異流義がすぐに頭に浮かびます。彼らは「依法不依人」の仏の制誡を蔑ろにし、文底下種の仏法に背く大謗法を犯しているのです。
 私たちは、どこまでも御本仏大聖人様の正法に違背することなく、末法適時の修行たる折伏に邁進し、一人でも多くの人を救ってまいりましょう。

  次回は『上野殿御返事』(平成新編御書 八二四)の予定です

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