大白法1018号 令和元年12月1日より転載

御書解説232 背景と大意

三三蔵祈雨事〈さんさんぞうきうのこと〉

御書873頁 別名西山殿御返事

一、御述作の由来

 本抄は、建治元(一二七五)年六月二十二日、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、身延において認められ、駿河国富士郡西山(静岡県富士宮市)の地頭であった西山入道に与えられた御書です。別名『西山殿御返事』とも称されます。
 大聖人様は、本抄述作の十二日前の六月十日に、日興上人の母方の祖父である西山入道に宛てて『撰時抄』を著し、国土の災難は時に適わぬ諸宗の謗法によることを説示され、特に真言宗の邪義を破折されています。
 本抄では、その題号が示す通り、中国の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人による真言の祈雨によってその後に惨事が起こった現証に事寄せて、改めて真言が亡国の悪法であることを論じられています。
 本抄の御真蹟は、第二紙より第十五紙までが総本山大石寺に蔵されています。

二、本抄の大意

 初めに、植えた木でも強い添木があれば大風が吹いても倒れることはなく、もともと生えていた木でも根が弱ければ倒れてしまう。また意気地のない者でも助ける人が強ければ倒れることはなく、少しくらい壮健な者でも独りであれば悪路で倒れてしまうという例を挙げ、仏が世に出なければ三悪道に堕ちるところを、仏を信ずる強縁によって一切衆生の多くは成仏することができたことを述べられます。次いで、阿闍世王・鴦崛摩羅〈おうくつまら〉の例を挙げ、成仏のためには自分の智慧は何の役にも立たず、善知識に値うことが大事である旨を仰せられます。
 次に、仏法の正邪を決する基準として、道理(理証)と証文(文証)とが重要であり、さらに道理・証文よりも現証が重要であるとして三証を示されます。
 続いて、文永五(一二六八)年頃、東に俘囚〈えびす〉の乱が起こり、西には蒙古の侵攻を目的とした使者が来たことを挙げられ、これらは正しい仏法を信じない故に起こると仰せられます。そして、真言宗で調伏が行われれば、インド・中国・日本の三力国のうち、インドはしばらく置き、中国・日本の二国は真言宗のために亡ぼされることになると述べられます。
 そして、真言による祈祷の例として、中国の唐代に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵が行った祈雨は、いずれも大雨が降ったものの大風が吹いて、かえって惨事を招いたことを述べられます。
 次に、日本の例として、守敏〈すびん〉の祈雨、弘法の祈雨について挙げられ、弘法の祈祷では雨が降らず、天皇の祈りによって降った雨を東寺(弘法)の門人が我が師の祈りによる雨としたことは、天下第一の誑惑であること。弘法には他にも弘仁九(八一八)年の疫病払い、三鈷についての不可思議の証惑があることを述べられます。
 次に、中国の天台大師が陳の時代の大干魃の際、法華経を読誦してたちまち雨を降らせたこと。また日本の伝教大師も法華経・金光明経・仁王経の三経をもって祈雨を行い三日目に雨を降らせ、日本第一の難事であった大乗戒壇の建立を天皇より許されたことを挙げられ、これをもって弘法の祈雨を推し量るべきであると仰せられます。
 続いて、このように法華経は勝れ、真言は劣ることは明白であり、真言によって祈る日本は亡ぶであろうと仰せられます。さらに、後鳥羽上皇が承久の乱で敗れて隠岐島へ流されたことから、真言をもって蒙古と俘囚とを調伏するならば日本国は負けると推する故に、身命を捨てて諌言したこと。そしてそれは中国や日本の智者が五百余年の間、一人も知り得なかった考えであることを仰せられます。
 次いで、善無畏・金剛智・不空等の祈雨について、雨に大風が伴ったことを、どのように心得ればよいかとの問を設けられ、大日経による祈雨には大きな僻事が混じっていること。そして、弘法が天皇の祈雨による雨を自らの雨と偽ったことは、善無畏等にも勝る失であると仰せられます。
 さらに第一の大妄語は、弘法の自筆に「弘仁九年の春、疫病を払う祈祷を行ったところ夜中に太陽が出た」というもので、これは日蓮門家が彼らを破折する際の秘事であるから、本文を引いて相手を詰めて言うべきである、また、これまで述べてきたことは天下第一の大事であるから、人づてに語ってはならないと誡められます。
 次に、仏在世のインドにおいては九十五種の外道が十六大国の王・臣・諸民に働きかけて仏を迫害したこと。また外道は過去仏の経々を読み損なったことから起こったことなどを仰せられます。
 次いで、今の日本も同じであるとし、弘法・慈覚・智証の三人が真言と天台との勝劣に惑ったことから、日本国の人々は今生には他国に攻められ、死後には悪道に堕ちると仰せられ、中国が亡び、人々が悪道に堕ちたことも善無畏・金剛智・不空の誤りによって始まったと述べられます。
 また日本の天台宗も、慈覚・智証の誤りによって、本来の天台宗ではなくなったこと。さらに涅槃経・法華経の文を挙げて、末法において正法を説く者が稀であることを明示されます。
 次に、大集経・金光明経・仁王経・守護経等には「末法に正法を行ずる人が現われると、邪法の者が王臣などに訴え、王臣たちは訴えた者の言葉を信じ、一人の正法の行者を罵り、責め、流罪し、殺したりする。そうした時に、梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等が、隣国の賢王の身に入り代わって、その国を攻め亡ぼすであろう」と説かれていることを挙げ、今の世はこれらの経文に説かれる通りであると述べられます。
 最後に、各々が過去世の善根をよく知り、このたび生死の迷いを離れるよう仰せられ、さらに愚鈍の須梨槃特〈すりはんどく〉の成仏と、智慧ある提婆達多の堕地獄の姿が末代の今の世を表わしていると述べられて、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

善知識に値うことが大事

 本抄において大聖人様は、
 「たゞあつ(熱)きつめ(冷)たきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせち(大切)なり。而るに善知識に値ふ事が第一のかた(難)き事なり」
と仰せられ、善知識に値うことの大事を仰せられています。
 『摩訶止観』には、
 「知識に三種有り。一に外護、二に同行、三に教授なり」(摩訶止観弘決会本 中一〇四)
と、善知識に外護、同行、教授の三つあることが説かれています。
 「外護の善知識」とは、文字通り総本山を外護し、寺院を外護し、妙法弘通を外護していく者を言います。
 「同行の善知識」は、互いに切磋琢磨し、志を斉しくして、互いに敬い重んじていく者のことです。各講中において異体同心し、よき友となって切磋琢磨し、広宣流布のために精進していくことが大事です。講中の必要性はここにあります。
 「教授の善知識」とは、正法を説き、真の仏道と仏道ではないものを示し、人の迷いを打ち払う善師を言います。末法においては御本仏日蓮大聖人様こそ善知識であり、第二祖日興上人をはじめとする代々の御法主上人、さらには御法主上人猊下に随順し、所属信徒を教化育成する末寺の御住職も、この教授の善知識に含まれます。
 大聖人様は本抄の冒頭において、添木した植木は暴風雨に遭っても倒れず、どのような悪路でも助ける人があれば倒れることがないとの譬えをもって、人生の中でどのような暴風雨に遭おうとも、どのような悪路を進むことになろうとも、信心を励まし、導いてくれる善知識に値えば、苦難を乗り越え成仏の境界に至ることができると仰せになっています。

三証(仏法批判の原理)

 大聖人様は本抄において、
 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」
と仰せられ、道理(理証)・証文(文証)・現証の三つの証拠を仏法の正邪・浅深を決する基準として示されています。
 正しい仏法を信ずれば正しい結果が現われ、誤った教えを信ずれば不幸な結果が現われることは間違いありません。かつて本宗に在籍していた者たちが、邪教徒となって現証を強調してくることがありますが、それは表面的な魔の通力に誑〈たぶら〉かされたものであることをはっきりと教え、破折していくことが大事です。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「一人ひとりが大御本尊様への絶対的確信を持ち、一切衆生救済の大願に立って、共に励まし合い、助け合い、折伏を実践していくなかに、真の異体同心の団結が生まれてくるのであります。つまり、理屈ではなく、互いが広布への戦いを実践するところに、真の団結が生まれてくることを忘れてはなりません」(大白法 九〇九号)
と御指南されています。
 本宗僧俗は、善知識の大事を肝に銘じ、真の異体同心の団結をもって折伏弘通に精進してまいりましょう。

  次回は『南条殿御返事』(平成新編御書 八八二)の予定です

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