大白法1030号 令和2年6月1日より転載

御書解説237 背景と大意

妙心尼御前御返事

御書903頁

一、御述作の由来

 本抄は、建治元(一二七五)年八月二十五日、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、身延において、駿河国富士郡賀島(静岡県富士市)に住む高橋六郎兵衛入道の妻・妙心尼へ与えられた御消息です。御真蹟は現存しませんが、第二祖日興上人の写本が総本山大石寺に所蔵されています。
 本抄は、妙心尼の幼い一人娘のために大聖人様が御守御本尊を授与された際、一緒に与えられた御消息です。
 対告衆の妙心尼は、日興上人の母方の叔母に当たります。駿河国富士郡西山(静岡県芝川町※現富士宮市)の由比入道(河合入道)の娘として生まれ、同郡賀島の高橋六郎兵衛入道に嫁ぎ、一子をもうけました。
 本抄述作の九日前の御消息によれば、夫の高橋入道が、「なが病」を患っていたため、
 「わかれのをしきゆへにかみをそり」(御書 九〇一)
とあるように、この頃、妙心尼が、髪を剃り尼となったことが判ります。
 妙心尼は、同年中に高橋入道が亡くなると、出生地の西山の由比家に帰り「持妙尼」との法号で呼ばれ、また窪〈くぼ〉の地に居住したことから「窪尼」とも称されています。御書中に「妙心尼」「持妙尼」「窪尼」との名称が見えまずが、いずれも同一人物です。
 高橋六郎兵衛入道や妙心尼の入信は、甥である日興上人の教化によるものです。日興上人は大聖人様の弟子となると、まず血縁・地縁をたどって折伏され、甲斐、駿河、武蔵の綱島などに弘教されました。
 大聖人様が佐渡御配流の時、日興上人は二十六歳でしたが、その頃までに親族のほとんどを折伏し、地縁では駿河国庵原〈いはら〉郡松野郷(静岡県富士市)に住む松野六郎左衛門入道や、身延の波木井実長など多くの人を折伏し大聖人様に帰依させています。松野六郎左衛門入道の次男は、後に六老僧の一人となる蓮華阿闍梨日持で、娘は南条兵衛七郎に嫁ぎ、時光殿の母となっています。
 同年七月十二日の『高橋入道殿御返事』には、
 「足にまかせていでしほどに、便宜にて候ひしかば、設ひ各々はいとわせ給ふとも、今一度はみたてまつらんと千度〈ちたび〉をもひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするがの国は守殿〈こうどの〉の御領、ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられは各々の御なげきなるべしとをもひし心計りなり」(同 八八九)
と記されています。
 大聖人様は佐渡配流の御赦免後、鎌倉で三度目の国主諌暁をされ、その後隠棲のため身延に向かわれました。途中、富士の高橋邸の近くを通られましたが、駿河国は執権・北条時宗の領地であり、殊に富士郡などは時宗の母である後家尼御前(葛西〈かさい〉殿)の身内が多く、大聖人様を目の敵にしているため、大聖人様が高橋邸に立ち寄ったことを聞きつけたならば、高橋家の人々に害が及ぶことになるとの御配慮から、立ち寄らなかったと仰せです。
 北条時宗の母・葛西殿(葛西禅尼)は五代執権・最明寺入道時頼の妻で、極楽寺入道重時の娘です。重時は大聖人様を伊豆配流に処した張本人であり、葛西殿の母方の祖父は浄土宗の開祖・法然に師事し、『選択集』の編纂にも関わった人物で熱心な念仏信者でした。
 そして、葛西殿の嫁いだ北条得宗〈とくそう〉家には、御内人〈みうちびと〉(内管領〈ないかんれい〉)として絶大な権力を行使し、竜口法難や後の熱原法難などで、大聖人様及びその門下を迫害した平左衛門尉頼綱がいました。
 妙心尼は、そのような大聖人様を敵視する者たちに囲まれながらも純真な信仰を貫き通され、夫の六郎入道が病に倒れた後も、また亡くなった後も、大聖人様のもとにたびたび御供養をお届けしています。また、熱原法難に際しては門下僧俗への外護を果たされています。

二、本抄の大意

 初めに種々の御供養に対する御礼を述べられます。
 次いで、尼の幼子のために御守御本尊を授けること、その御本尊は法華経の肝心、一切経の眼目であることを述べられます。そして、それは例えば天には日・月、地には民を統治する大王、人においては心、宝の中には如意宝珠、家屋においては大黒柱のようなものであると教示されます。
 次に、この漫荼羅の御本尊を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を待ち望むように、鳥が木を頼むように、一切の仏神等が集まり、昼夜にわたり影のように守ってくれる法であることを説示され、最後によくよく信じていきなさいと仰せられて、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

御本尊を受持する功徳

 大聖人様は本抄において、
 「このまんだらを身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををやのあいするがごとく(中略)一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし」
と仰せられ、御本尊を身に持つ功徳と、信心の大切さを教示されています。同様の御教示としては、『新尼御前御返事』の、
 「此の五字の大漫荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(御書 七六四)
の文、また『日女御前御返事』には、
 「かゝる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸ひをまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に灯の如く、険難の処に強力〈ごうりき〉を得たるが如く、彼〈かし〉こへまはり、此へより、日女御前をかこみまぼり給ふべきなり」(同 一三八八)
の文等が挙げられます。
 また、御本尊に具わる功徳について、『教行証御書』には、
 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為〈せ〉り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(同 一一〇九)
と仰せられて、妙法の御本尊に万行万善の功徳が具わることを明示されています。
 総本山第二十六世日寛上人が『観心本尊抄文段』に、
 「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九)
と御教示のように、御本尊には計り知れない功徳と妙用が具わり、御本尊を受持すれば、その功徳をそのまま得ることができるのです。
 なお、本抄から四年後の弘安二(一二七九)年五月四日の『窪尼御前御返事』に、
 「又一人をはするひめ御前も、いのちもながく、さひわひもありて、さる人のむすめなりときこえさせ給ふべし。当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば、父の後世をもたすくべし。(中略)をやをやしなふ女人なれば天もまぼらせ給ふらん、仏もあはれみ候らん。一切の善根の中に、孝養父母は第一にて候なれば、まして法華経にておはす。金〈こがね〉のうつわものに、きよき水を入れたるがごとく、すこしももるべからず候」(御書 一三六七)
とあり、大聖人様より御守御本尊を頂戴した妙心尼の子・姫御前が、当時まだ幼かったにもかかわらず、母親を助け、父への孝養を尽くす、しっかりとした女性に成長していたことを大聖人様は御褒めになられています。
 これにより、高橋入道亡き後も、妙心尼母子が大聖人様の仰せの通り、日々信行に励んでいた姿を窺い知ることができます。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「『余念なく一筋に信仰する者』とは、すなわち自行化他にわたる信心を専らにして、一筋に妙法を行ずる者を言い今日においては、来たるべき令和三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の実現へ向けて、身軽法重・死身弘法の御聖訓を体し、勇猛果敢に折伏を行じ、信行に励む者のことであります。すなわち、自行化他の信心に励む者は、必ずや大御本尊様の広大無辺なる功徳を得て、現世安穏後生善処は疑いないと仰せられているのであります。(中略)私どもは千載一遇の好機を迎えるに当たり、一人も遅れを取ることなく、敢然たる決意をもって勇猛果敢に折伏を行じ、もって御宝前にお誓い申し上げた法華講員八十万人体勢構築の誓願を必ず達成し、一人ひとりが広大無辺なる仏恩に報い奉るよう心から願うものであります」(大白法 一〇〇五号)
と御指南されています。
 本宗僧俗は、強盛なる信心をもって折伏弘通に邁進し、どのような困難があろうともそれに屈することなく、御命題達成に向け、いよいよ前進してまいりましょう。

 次回は『単衣抄』(平成新編御書 九〇三)の予定です

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