大白法1032号 令和2年7月1日より転載

御書解説238 背景と大意

単衣抄

御書903頁 別名上野殿御返事・与南条氏書

一、御述作の由来

 本抄は建治元(一二七五)年八月、大聖人様が御年五十四歳の時、身延においで認められた御消息です。御真蹟は現存せず、写本(日朝本)が残っています。
 本抄には『上野殿御返事』『与南条氏書』との異称があり、古来、南条時光殿に与えられた書との伝承があります。
 しかし、本文中の「未だ見参にも入らぬ人の膚を隠す衣を送り給び候」との記述や、末尾の「此の文は藤四郎殿女房と常により合ひて御覧あるべく候」との御文が、四条金吾夫人に与えられた『同生同名御書』(御書五九五)とほぼ同文であることから、鎌倉在住の信徒に与えられたものと拝されます。

二、本抄の大意

 初めに、単衣〈ひとえぎぬ〉一領の御供養を受け取られたことを述べられます。
 次に、棄老国〈きろうこく〉では老者を捨てたが、日本国では今、法華経の行者を捨てると仰せられ、日本に仏法が伝わって以来七百年、父母を殺す者、朝敵となる者、山賊・海賊となる者は数え切れないが、法華経の故に、日蓮ほど人に憎まれた者は聞いたことがないと仰せられます。
 次いで、三十二歳から当年五十四歳に至るまでの間、寺を追い出され、住処を追われ、親類を苦しめられ、夜討ちに遭い、合戦に遭い悪口を言われ、打たれ、傷を負い、弟子を殺され、頸を切られようとし、流罪が二度に及ぶなど、片時も心の安らかなことはなかったが、それは源頼朝の七年に及ぶ合戦や、源頼義の十二年に及ぶ闘諍よりも勝っていると仰せられます。
 また、法華経『法師品第十』の「如来現在。猶多怨嫉」(法華経三二六)の文、同『安楽行品第十四』の「一切世間。多怨難信」(同三九九)の文を挙げられ、天台大師がこの経文を身読していないこと、伝教大師も「況滅度後」の経文に符合しないことを挙げられ、日蓮が日本国に出現しなければ如来の金言も虚しくなり、多宝の証明も用をなさず、十方の諸仏の御語〈みことば〉も妄語となったであろうと仰せられます。さらに仏滅後二千二百二十余年の間、インド・中国・日本において、「一切世間。多怨難信」の人はおらず、日蓮がいなければ仏語も絶えてしまったであろうと述べられます。
 次いで、このような身であるから、蘇武が雪を食べて命を継ぎ、李陵が蓑を着て世を過ごしたように、山林に交わり、木の実のない時は空腹のまま二、三日を過ごし、鹿の皮が破れれば裸のまま三、四ヵ月を過ごすのである、それを哀れんで衣を送ってくださったことは有り難いと仰せられます。
 そして、この帷子〈かたびら〉を着て仏前で法華経を読むならば、法華経の六万九千三百八十四字は、一々の文字が金色の仏であるから、衣は一つでも六万九千三百八十四の仏に衣を着せたことになる故、その衣を供養した夫妻二人には、これらの仏が我が檀那として御守りくださるであろうから、今生においては祈りを成じて財宝となり、臨終の時は月となり日となり、道となり橋となり、父母とも、牛馬とも、輿〈こし〉等ともなって二人を霊山浄土に迎えられるであろうと、功徳甚大なることを述べて本文を括られます。
 追伸として、この文は藤四郎殿女房と常に寄り合って見るよう勧められています。

三、拝読のポイント

法華経の身読

 本抄において大聖人様は、立教開宗以来、大難四力度小難数知れずと言われる御自身の法難について記されています。
 すなわち、「或は寺を追ひ出され」とは清澄寺を追われたこと、「或は処をおわれ」とは故郷の安房を追われたこと、「或は親類を煩はされ」とは御両親が苦しめられたこと、「或は夜打ちにあひ」とは松葉ヶ谷の草庵を襲撃されたこと、「或は合戦にあひ」とは小松原法難のこと、「或は悪口数をしらず」とは上下万民より悪口罵詈されたこと、「或は打たれ」とは文永八(一二七一)年九月十二日に少輔房に法華経第五の巻で頭を打たれたこと、「或は手を負ひ」とは小松原法難にて東条景信に斬りつけられ傷を負われたこと、「或は弟子を殺され」とは小松原法難で弟子の鏡忍房が殺されたこと、「或は頸を切られんとし」とは竜口の頸の座のこと、「或は流罪両度に及べり」とは伊豆と佐渡の御配流のことです。このように大聖人様は、法華経『勧持品』二十行の偈に予証された三類の強敵による迫害を一身に受けられ、そして「数数見擯出」の経文を佐渡配流によって身読されたのです。
 像法時代の天台大師や伝教大師は、「時」と「機」と「付嘱」がなかったため法華経を身読することは叶いませんでした。まさに、大聖人様の法華経の行者としての御振る舞いこそが、釈尊の未来記である法華経を真実の教えであると証明したのです。
 なお、『上野殿御返事』には、
 「勧持品に八十万億那由他の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり。誰か出でて日本国・唐土・天竺三国にして、仏の滅後によみたる人やある。又我よみたりとなのるべき人なし。又あるべしとも覚へず。『及加刀杖』の刀杖の二字の中に、もし杖の字にあう人はあるべし。刀の字にあひたる人をきかず。不軽菩薩は『杖木瓦石』と見へたれば杖の字にあひぬ、刀の難はきかず。天台・妙楽・伝教等は『刀杖不加』と見へたれば是又か(欠)けたり。日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ。剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜の口となり。一度もあう人なきなり。日蓮は二度あひぬ」(御書 一三六〇)
と教示されています。

 願兼於業〈がんけんおごう〉の精神

 また、大聖人様は『開目抄』に、御自身が法華経に予証された法華経の行者であり、佐渡配流も悦びとすることを、
 「例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かたのごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし」(同 五四一)
と、「願兼於業」の語句を法華経の行者としての御自身の御振る舞いになぞらえて仰せです。
 法華経『法師品第十』には、
 『薬王、当に知るべし。是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於て、衆生を愍れむが故に悪世に生れて、広く此の経を演ぶるなり」(法華経 三二〇)
と、本来、清浄なる徳を積んだ大菩薩が、自ら願って浄業の果報を捨て、悪世に生まれて妙法を弘めることが説かれています。
 この文について、妙楽大師の『法華文句記』には、
 「薬王より是人自捨清浄に至っては、悲願牽〈ひ〉くが故なり。仍是れ業生なり、未だ通応に有らず。願って業を兼ぬ、具に玄文の眷属の中に説くが如し」(法華文句記会本 中六三三)
と釈されています。
 大聖人様が『御義口伝』に、
 「大願とは法華弘通なり、愍衆生故とは日本国の一切衆生なり、生於悪世の人とは日蓮等の類なり」(御書 一七四九)
と仰せのように、本宗僧俗は、正法を弘めるために願って悪世末法に生まれてきたことを忘れることなく、地涌の菩薩の眷属としての使命感を強く持ち、折伏弘通に邁進することが肝要です。

御供養の功徳

 本抄において大聖人様は、単衣を御供養された夫妻に対して、「衣は一つなれども六万九千三百八十四仏に一々にきせまいらせ給へるなり」と仰せです。
 『富木殿御返事』には、
 「此の帷をきて日天の御前にして、此の子細を申す上は、定めて釈・梵・諸天しろしめすべし。帷一つなれども十方の諸天此をしり給ふべし。露を大海によせ、土を大地に加ふるがごとし。生々に失せじ、世々にくちざらむかし」(同 七五九)と仰せになり、また『新池御書』には、
 「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせ給ひて候」(同 一四五六)
と、末法の法華経の行者である大聖人様に単衣など種々の御供養を申し上げる功徳の甚大なることを御教示です。

四、結び

 年末には宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の特別御供養の機会を戴いています。真心からの御供養をさせていただきましょう。
 また、御法主日如上人猊下の、
 「私共は大聖人の忍難弘通の御振舞を拝し、如何なる障魔が行く手を阻もうが、身軽法重・死身弘法の御聖訓を体し、何としても、法華講員八十万人体勢構築の誓願は達成しなければなりません。誓願は達成してこそ、価値があり功徳もあるからであります」(大白法 一〇二〇号)
との御指南にお応え申し上げてまいりましょう。

 次回は『強仁状御返事』 (平成新編御書 九一六)の予定です

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