大白法1040号 令和2年11月1日より転載

御書解説241 背景と大意

其中衆生御書

御書926頁

一、御述作の由来

 本抄は、建治元(一二七五)年、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、身延山において認められた御書です。御真蹟は現存しません。
 本抄は、前後が欠損しており、御真蹟や古写本も伝わっておらず、全体の詳しい内容は不明です。
 対告衆は、浄土教を破折する内容から、浄土宗等から改宗した弟子・信徒に与えられたものと推測することができます。
 また、大聖人様が同年に著された『一代五時鶏図』(御書九三四)に、本抄と同じく釈尊が三界独尊の主師親であることを『譬喩品第三』や『法華文句』『法華文句記』を引いて示されていることから、門弟に対する法門教授用に著されたものである可能性もあります。

二、本抄の大意

 内容は大きく四つに分けられます。
 まず第一に、娑婆世界の衆生に三徳有縁の仏は釈尊のみであることを『譬喩品』の、
 「其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」(法華経 一六八)
の文を引いて示されます。この直前には主師親の三徳の中の主徳を表わす「今此三界皆是我有」の文があります。
 大聖人様は当文を経証として、釈尊以外の阿弥陀仏等の諸仏が三徳を欠くことは明らかであるにもかかわらず、世間の念仏者等は三徳兼備の釈尊に背き、二十の逆罪を犯して堕獄必定の人となっていることは実に悲しむべきことと述べられます。そして、これは法華経の初門の法門であると示されます。
 第二に、法華経迹門の『化城喩品第七』に説かれる大通智勝仏の因縁に約して、西方極楽浄土の阿弥陀仏が娑婆世界に無縁の仏であることを明かされます。
 すなわち、過去三千塵点劫以来、娑婆世界の衆生は阿弥陀仏等の十五仏が住する浄土に生まれる因縁がないことを示され、その論拠として、まず天台大師の『法華文句』の文を挙げられます。天台大師は、光宅寺法雲が『法華義記』に、長者窮子の譬えの「長者」を西方極楽浄土の阿弥陀仏であると解釈したことに対し、長者は釈尊であり、阿弥陀仏は西方の国土に住する仏で娑婆世界とは国土も縁も異なるため、娑婆世界における阿弥陀仏の隠顕(本地身を隠して垂迹身を顕わすこと)の義は成立せず、娑婆世界の衆生と阿弥陀仏との間には子父の義も成立しないこと。また、法華経には阿弥陀仏が娑婆世界の衆生にとって三徳有縁の仏であるとは説かれていないと示されます。
 次いで、妙楽大師の『法華文句記』の文を挙げ、釈尊と阿弥陀仏とでは、宿世の縁は別で、衆生化導の方法も同じではないため、生養〈せいよう〉(結縁と成熟)の縁が異なり、娑婆世界の衆生と阿弥陀仏には子父の義が成立しないことを示されます。そして、これらの釈文によって、娑婆世界の衆生には阿弥陀仏などの十方の諸仏は養父に過ぎず、釈尊こそが実父であると仰せられます。
 第三に、法華経本門の『如来寿量品第十六』の教説によれば、娑婆世界の衆生は久遠五百塵点劫以来、釈尊の実子であるが、世間のことに執着して法華経を捨て、あるいは小乗経・権大乗経に執着して法華経を捨て、また迹門に執着して本門を知ろうとせず、あるいは十方の諸仏の浄土や、阿弥陀仏の浄土を信奉するなど、七宗八宗(南都六宗と真言宗・天台宗)等の悪師に従って法華経を捨ててしまったために、五百塵点劫を過ぎ、今に至ることを教示されます。そして天台大師の『法華玄義』の文を挙げて、それは悪友に値って本心を失っている姿であると仰せられます。
 第四に、法華経『薬王菩薩本事品第二十三』に、阿弥陀仏の安楽浄土を勧める経文があるとの問いを設け、答えとして、『薬王品』の阿弥陀仏は、爾前の浄土三部経や法華経迹門の『化城喩品』に説かれる阿弥陀仏ではなく、名前は同じでも、その本体が異なることを『無量義経』と『法華文句記』の文を引用して明かされます。
 そして、発起〈ほっき〉(仏の説法を請い、化導を助ける)・影向〈ようごう〉(仏に随侍して法を賛嘆する)等の深位の菩薩が十方の浄土から娑婆に来て、また娑婆から十方の浄土へ往くことについて触れたところで、本抄は終わっています。

三、拝読のポイント

三種の阿弥陀仏

 本抄や『法華初心成仏抄』などに説かれるように、一口に阿弥陀仏と言っても三種類の区別があります。
 まず@『観経(無量寿経)』の阿弥陀仏とは、過去無数劫に法蔵比丘が修行した時、自ら仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏を師として四十八願を立てて、その願が成就したところの仏です。またその国土は、娑婆世界より西方十万億の仏土を過ぎたところにあると説かれています。
 次にA法華経迹門に説かれる阿弥陀仏とは、『化城喩品』に、三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六人の王子が法華経を聞いて成道し、後に十方の国土で法華経を説きましたが、その十六人のうちの九番目の王子が阿弥陀仏です。
 そしてB法華経本門に説かれる阿弥陀仏とは、『薬王品』に、
 「若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」(同 五三七)
と説示される仏です。
 この阿弥陀仏は『寿量品』に、
 「応に度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同、年紀の大小を説き」(同 四三一)
と説かれる久遠実成の釈尊の分身仏です。
 つまり『薬王品』の文意は、阿弥陀仏の名号を称えることによって西方極楽浄土に往生するというものではなく、法華経を聞き、修行して、娑婆世界がそのまま妙法の功徳をもって荘厳された安楽世界(寂光土)となり成仏するというものです。
 故に『法華初心成仏抄』にも、
 「本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり」(御書 二三八)
と仰せなのです。大聖人様が『秋元御書』に、
 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。真言五戒等も種ならず」(同 一四四八)
と仰せのように、私たちは妙法蓮華経の五字を信受するところにのみ、即身成仏の大功徳が得られるのです。

三徳兼備の仏

 主師親の三徳とは、仏に具わる三つの徳性のことで、主徳とは衆生を守護する徳、親徳とは衆生を慈愛する徳、師徳とは衆生を導き教化する徳をいいます。
 大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
 「我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」 (同三二二)
と、主師親の三徳を具え、娑婆世界の衆生にとっての大恩の仏とは、法華経の教主釈尊だけであると仰せです。
 『御義口伝』には、
 「主師親に於て仏に約し経に約す。仏に約すとは、迹門の仏の三徳は今此三界の文是なり。本門の仏の主師親の三徳は、主の徳は我此土安穏の文なり。師の徳は常説法教化の文なり。親の徳とは我亦為世父の文是なり。(中略)経に約すれば『諸経中王』は主の徳なり『能救一切衆生』は師の徳なり『又如大梵天王、一切衆生之父』の文は父の徳なり」(同 一七七〇)
と、迹門の仏の三徳を『譬喩品』の「今此三界」の文、本門の仏の三徳を『寿量品』の「常説法教化」「我此土安穏」「我亦為世父」の文に配当し、諸経中王の法華経の教主釈尊が諸仏の中で最尊の三徳兼備の仏であることを明かされています。
 さらに、もう一重深く拝しますと、文上法華経の教主釈尊は、本已有善の衆生(過去に下種を受けた者)を利益する熟脱の仏であり、未だ下種を受けていない本未有善の末法の衆生にとっては、三徳兼備の仏ではありません。
 末法における三徳有縁の仏について、大聖人様は『真言諸宗違目』に、
 「日蓮は日本国の人の為には賢父なり、聖親なり、導師なり」(同 六〇〇)
と仰せられ、また『開目抄』に、
 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」 (同 五七七)
と、御自身に主師親の三徳が具わることを明かされています。
 つまり、大聖人様こそ悪世末法の一切衆生を救済する三徳兼備の仏なのです。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「大聖人様を末法の御本仏、三徳有縁の仏様と仰ぎ、その御図顕せられた御本尊を帰命依止の本尊と崇め奉り、信行に励むところに、我々は即身成仏することができるのであります」(大白法 八二八号)
と仰せです。
 私たちは、主師親の三徳兼備の御本仏である大聖人様に帰依し、折伏弘通に精進することが大切です。

 次回は『上行菩薩結要付嘱口伝』(平成新編御書 九三九)の予定です

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