大白法1066号 令和3年7月1日より転載

御書解説246 背景と大意

南条殿御返事

御書970頁 別名 大橋太郎書

一、御述作の由来

 本抄は、建治二(一二七六)年閏三月二十四日、日蓮大聖人様が御年五十五歳の時に、身延において認められ、南条時光殿に与えられたお手紙です。御真蹟は、全二十一紙のうち二十紙が総本山大石寺に現存しています。
 本抄において、大聖人様は時光殿からの種々の御供養に対する御礼を述べられると共に、大橋太郎父子の説話を通して、その志は亡き父への孝養となると讃歎されています。
 時光殿の父・南条兵衛七郎殿は、念仏を信奉していましたが、鎌倉在勤の時に大聖人様に帰依しています。正元元(一二五九)年、兵衛七郎殿の次男として誕生した時光殿は、幼い時に父に連れられ、鎌倉で大聖人様にお目にかかっています。
 兵衛七郎殿が文永二(一二六五)年三月八日に没した後、時光殿は家督を相続して駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となり、文永十一年五月、大聖人様が身延に入山されるや、すぐさま種々の御供養をお届けしています。以後、時光殿は大聖人様への御供養を絶やすことなく続けられ、生涯約四十通に及ぶ御書を賜っています。

二、本抄の大意

 初めに、時光殿から届けられた御供養の品々を挙げ、そこには時光殿の志が表われており、とても有り難いと仰せです。
 続いて、大橋太郎の説話を挙げられます。
        ◇
 昔、筑紫国(福岡県)の大名・大橋太郎は、源頼朝〈よりとも〉からお咎めを受け、鎌倉の由比ヶ浜の牢屋に十二年間、閉じ込められていた。鎌倉に連行される際、妻に「今そなたと別れるのも辛いが、何よりも、これから産まれてくる我が子の行く末を見届けられないのが悲しい」と言い残した。
 やがて妻は男児を出産した。七歳となった息子を山寺に登らせたところ、息子は仲間たちから「親なし」と笑われた。家に帰った息子に父のことを尋ねられても母は答えようがなく、ただ泣くばかりであった。なおも息子は「天がなければ雨は降らないように、母がいても父がいなければ人は生まれるはずはない。どうして父の居場所を隠されるのか」と問い詰めた。母は、とうとう父が鎌倉に連行されたことを打ち明けた。さらに、先祖の日記と産まれてくる子に遺した自筆の譲り状を見せ、その後の消息は判らないと伝えると、息子は伏して泣き悲しんだ。
 すると母は、「お前を山寺に登らせたのは父への孝養を尽くすため。父上の恩に報いるため経典を読誦して孝養しなさい」と言うと、息子は急いで山寺に戻り、再び家に帰る心はなくなった。その後、息子は出家こそしなかったものの、法華経を暗記して唱えられるほどに成長した。
 十二歳になった頃、息子は鎌倉へ行き、鶴岡八幡宮の前で法華経を読誦して、父の安否を教えて欲しいと一心に願った。
 ちょうどその時、八幡宮に参詣していた北条政子(二位殿)は、どこからともなく聞こえてくる読経に感銘を受け、帰宅して夫の頼朝に報告した。
 後日、頼朝がその子を呼び寄せ持仏堂で法華経を読ませていると、「今日、囚人が首を斬られる」との報が入った。それを聞いた子供は、父を偲んで涙ぐんだ。頼朝が不思議に思って涙の理由を尋ねると、今までのことを話し、聞いていた侍たちも皆、涙で袖を濡らし、頼朝も痛く哀れんだ。
 頼朝が家臣の梶原景時〈かじわらのかげとき〉を呼んで「大橋太郎という囚人を連れてまいれ」と命じると、「その囚人は今、首を斬るために由比ヶ浜に連れ出した者です。既に斬ってしまったかも知れません」とのこと。それを聞いた子供は頼朝の前であるのも忘れて泣き崩れた。
 頼朝は「刑場まで駆けつけ、まだ斬られていなかったら連れてまいれ」と命じ、すぐさま由比ヶ浜に向かわせた。景時は急いで馬を走らせ、遠くから大声で頼朝の命令を叫んだところ、今まさに首を斬ろうと太刀を抜いたところであった。
 景時が大橋太郎に縄を付けて頼朝のもとに連れて戻ると、頼朝は「その者をこの子に与えよ」と命じたので、子供は走り寄り父の縄を解いた。大橋太郎は、それが我が子とも知らず、どういう理由で助かったのかも理解できずにいた。
 頼朝は、改めてその子に施しの品を与え、父の命を与えたのみならず、大橋太郎が以前に知行していた領地を回復させた。
 そして頼朝は、次のように法華経の功徳について述べた。「私か法華経を信じるに至った理由は二つある。一つは、伊豆で囚人の身であった時、法華経を千部読み上げた功徳により、父の仇を討ち平家を倒し、日本国の武士の大将に任ぜられたこと。二つ目は、今、この子が法華経の功徳で父親を助けたことである。法華経はまことに有り難い御経であり、私は武士の大将として多くの罪を重ねた身だが、法華経を信じているため、加護を戴けるのではないかと思っている」と感涙にむせんだ。
         ◇
 大聖人様は、この説話に寄せ、親子の情は深く通ずるものではあるが、父の故南条兵衛七郎殿も、まさか我が子の時光殿が法華経をもって孝養の誠を尽くすとは思わなかったであろうと仰せられ、その姿は大橋太郎の捕り縄を解いた子の志と同じであり、今、日蓮は涙を浮かべながら本抄を認めていると述べられます。
 次いで、時光殿から届いた蒙古が再び襲来するとの情報は、未だ耳にしたことがないと仰せられ、人々は「日蓮房は蒙古が攻めてくるのを喜んでいる」と言うが、それはいわれなき誤解で、経文に他国からの侵攻が明記されている以上、仕方のないことであると述べられます。
 そして、日蓮は昼夜を分かたず法華経に祈念しているので、時光殿も御信心の上にも、さらに力を惜しまず祈念していきなさい。もし願いが叶わないとしたら、それは私の志が弱いのではなく、各々の信心が厚いか薄いかによるのであると仰せられます。
 最後に、日本国の高位の人々は必ず生け捕りになるであろう。まことに浅ましいことであると述べられ、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

 法華経による孝養こそ大事

 大聖人様は本抄において、亡父の信心を継いで、大聖人様・法華経(御本尊)に御供養申し上げる時光殿の志について、
  「今の御心ざしみ(見)候へば、故なんでう(南条)どのはたゞ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやう(孝養)をすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう(閻魔法王)・たひしゃくまでもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経もいかでかすてさせ給ふべき・かのちごのちゝのをなわをときしと、この御心ざしかれにたがわず」
と、故南条兵衛七郎殿は、我が子である時光殿を愛おしく思うであろうが、このように法華経をもって自分への孝養を尽くしてくれるとは思っていなかったであろう。仮に兵衛七郎殿に罪があって成仏できないでいたとしても閻魔法王や梵天・帝釈までもが時光殿の志を知っている。釈迦仏や法華経(御本尊)が、どうして捨て置くことがあろうか。これは大橋太郎の子供が法華経読誦の功徳によって父の命を救ったのと同じであると仰せられています。
 『窪尼御前御返事』に、
 「一切の善根の中に、孝養父母は第一にて候なれば、まして法華経にておはす。金のうつわ(器)ものに、きよき水を入れたるがごとく、すこしもも(漏)るべからず候」(御書一三六七)
とあるように、第一の善根である父母への孝養を、法華経をもってするならば、その功徳は漏れることなく父母並びにその孝子に具わるのです。
 故に大聖人様は『刑部左衛門尉女房御返事』に、
 「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給ひて候」(同一五〇六)
と仰せになり、また『忘持経事』に、
 「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり・譬へば種子と菓子と身と影との如し・教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目●(牛建)尊者は同時の成仏なり」(同九五八)
と、父母と孝子は同時の成仏であることを教示されているのです。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「御両親から受け継いだ信心を素直に守り、戒壇の御本尊様を信じ、自行化他の信心に励み、一家和楽を心掛け、まじめに信心に励むことによって、計り知れない大きな功徳を頂き、父母の恩に報いることができるのであります」(大白法 八六六号)
と御指南されています。
 本宗僧俗は、自他共の成仏と、父母への真の孝養を尽くすため、法統相続を確実に行い、広宣流布大願成就に向かって、いよいよ折伏弘通に邁進していきましょう。

   次回は『宝軽法重事』(平成新編御書 九八九)の予定です

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