大白法1066号 令和03年12月1日より転載

御書解説250 背景と大意

弁殿御消息

御書997頁

一、御述作の由来

 本抄は、建治二(一二七六)年七月二十一日、日蓮大聖人様が御年五十五歳の時、身延において認められ、滝王丸に託して鎌倉在住の弁阿闍梨日昭に与えられた御手紙です。
 御真蹟一紙が京都本能寺(法華宗本門流)に現存していますが、追伸の前半部分が欠落しています。
 末尾に、
 「紙なくして一紙に多人の事を申すなり」
と記されているように、多くの弟子檀越への伝言や指示などが、御真蹟一紙の余白や行間にまで及んでいます。この紙不足の要因は、本抄と同じ日に長編の法門書である『報恩抄』が擱筆されたことによるものと推察されます。
 本抄述作の目的は、弁殿を介して弟子檀越の用件に対処されるところにありますが、中でも本抄の大半を占める「かわのべどの〈河野辺殿〉等の四人の事」が中心であったと考えられます。
 冒頭にある「滝王」の名前は『さじき殿御返事(妙一尼御返事)』に、
 「滝王丸之を遣使さる」(御書 六六三)
とあるように、鎌倉在住の妙一尼に仕えていた下人で、妙一尼が大聖人様の佐渡配流に際して派遣し、身延入山後も大聖人様のもとにいた者です。そのため大聖人様は、妙一尼の家の葺き替えのため鎌倉に戻る滝王丸に本抄を託して、弁殿に届けられたことが判ります。

 河野辺殿について

 河野辺殿は、文永九(一二七二)年三月二十日の『佐渡御書』に、
 「かはのべ〈河野辺〉の山城」(同 五八三)
と、初めてその名が見える人物で、文永十一年正月十四日の『法華行者値難事』では、同書の対告衆として富木常忍や四条金吾と共に、
 「河野辺」(同 七二一)
と記されているため、鎌倉在住の有力檀越であったと考えられます。
 また、大聖人様は文永十一年九月の『弥源太入道殿御返事』(御書七四二)に、河野辺入道が死去したことに触れられて、同書の対告衆である弥源太入道をその形見とみると仰せられています。そのため、両人は親子、あるいはそれに近い関係であることがうかがえます。
 この河野辺入道(河野辺の山城・河野辺)と、建治二年の本抄に言及される「かわのべどの」との関係は不明ですが、同族であると推測され、河野辺入道殿の死去後も一族に大聖人様の教えが受け継がれていることが判ります。
 本抄において大聖人様が、不足する貴重な料紙に微に入り細を穿つ御指示を、所狭しと認められたのは、ひとえに河野辺をはじめとした、門下の異体同心の団結を図るためであったと考えられます。

二、本抄の大意

 冒頭、大聖人様のもとに仕えていた滝王が、家の屋根を葺き替えるために戻りたいと申したので、遣わしたと述べられます。
 次いで、衛門の大夫殿(池上右衛門大夫宗仲)に関する改心のことについては、大進阿闍梨の手紙にあるだろうと記されます。
 本抄では、大進阿闍梨の手紙の内容は、定かではありません。おそらく、宗仲に対する父の勘当が解かれつつあった池上父子の近況であったと推察されます。
 この大進阿闍梨は、文永七(一二七〇)年頃には既に阿闍梨号を持っていた、大聖人門下の重鎮です。また、文永八年の大聖人様の佐渡配流に当たっては、大聖人様より鎌倉に留まるように指示を受け、その後も日朗・日昭・三位房等と共に檀越等の教導に当たるなど、大聖人様の信任が厚かったことがうかがわれます。
 次に、十郎入道殿から頂戴した袈裟の御供養について、たいへん喜んでいる旨を伝言するように依頼されます。
 十郎入道は、『佐渡御書』の対告衆として富木常忍や四条金吾、桟敷尼〈さじきのあま〉御前と共に名前が挙がる、
 「大蔵たうのつじ十郎入道殿」(同 五八四)
と推定される人物で、それゆえ、鎌倉在住の有力檀越と考えられます。十郎入道の他の事蹟は不明ながら、『種々御振舞御書』(御書一〇五五)に、竜口の法難直後、大聖人様に北条氏の動向を伝達する「十郎入道」かおり、この人物が大蔵塔の辻十郎入道であれば、幕府に通じた人物であったと推測されます。
 次に、三郎左衛門殿(四条金吾頼基)が使者を遣わして大聖人様に何事か報告をしたことが記されます。大聖人様は、使者の伝言では覚束ないため、直接、四条金吾と面談し、話を聞いた上で、その内容を書き知らせるように依頼され、また金吾にもこのことを伝えるように指示されます。
 金吾が使者を派遣して大聖人様に伝えられた内容は、本抄から読み取れませんが、本抄の六日前の『四条金吾釈迦仏供養事』(御書九九五・本紙一〇六四号「御書解説」二四九回に掲載)に、大聖人様が金吾の私生活に対して、細やかな忠告や指示を記されていることと無関係ではないと思われます。すなわち、文永十一(一二七四)年九月頃、金吾は主君・江馬光時への折伏を敢行しましたが、光時はこれを快く思わず、主従関係も日を追うごとに崩れ、同僚たちもそれに拍車をかけようと種々の讒言を企てました。そして、本抄の翌年・建治三(一二七七)年には、鎌倉で起きた桑ケ谷問答が発端となり、ついに金吾は主君より所領没収・謹慎を言いつけられてしまうのです。
 したがって、本抄に見られる金吾の使者の派遣は、こうした自身を取り巻く不穏な状況に対し、大聖人様に御教導を願われていたものと推測されます。また、それゆえ、大聖人様は弁殿にさらなる詳報を要求されたと拝されるのです。
 次に、大聖人様は弁殿に対し、長らく河野辺殿等の四人の消息を耳にせず、たいへん心配であるから、彼らの身に何か異変があったのであれば、一々書いて知らせるように依頼されます。また、彼らのことは特に一大事と思ってたびたび諸天を諌暁しているため、今生には必ずその験があると強く申し上げるように指示されます。
 次いで、伊東八郎左衛門、能登房、少輔房のような退転者ならいざ知らず、熱心な日蓮の味方である四人のために頭を砕くほど必死に祈念しているのにもかかわらず、今まで験がないのは、彼らの中に法華経の信仰を翻意した者がいるからであると忠告され、思いが合わない人を祈って験がないのは当然だと四人に伝えるよう記されます。
 そして最後に、筑後房(日朗)、三位房、帥〈そつ〉(日高)たちに、時間ができ次第、大事の法門を伝えるため、すぐに身延まで来るように伝言を依頼されます。
 また、『十住毘婆沙論』等の要文を書いた大帖と、佐渡房(日向)が真言の表を消息の裏に書き写したものと、総じて一生懸命に書きつけた写本のうち、重要ではないものを送るように指示され、今は紙がないため、一枚の紙に多くの人の用件を申し上げたと記されて、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

 異体同心の大事

 大聖人様が『異体同心事』に、
 「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ。此の一門も又かくのごとし」(同 一三八九)
と、たとえ人が少なくても異体同心するならば広宣流布の大願も成就できるとの御教示のように、御遺命の広宣流布実現には異体同心の団結がたいへん重要となります。
 故に本抄においては、
 「しかるになづきをぐだきていのるに、いまゝでしるしのなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ。をもいあわぬ人をいのるは、水の上に火をたき、空にいえをつくるなり」
と、門下の中に一人でも大聖人様の信仰に疑いを持ち、翻意して誹謗中傷する者が交じっていたならば、その祈りは絶対に叶わないと仰せなのです。
 『法華初心成仏抄』に、
 「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御 一三一四)
とあるように、よき師・よき檀那・よき法の三つが揃ってこそ祈りを成就し、国土の大難も払うことができるのです。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「いまだ大聖人様の偉大なる教えに縁することもなく、苦悩に喘いでいる多くの人々に対して、異体同心・一致団結して勇猛果敢に折伏を行じ、妙法広布へ向けて前進していくことが最も肝要」(大白法 一〇五七号)
と御指南されています。
 本宗僧俗が異体同心して、妙法流布に向かい一歩一歩着実に前進し続けるところに、御遺命の広宣流布も、国土の安穏も、また個人の成仏も叶うのですから、いよいよ自行化他の信行に邁進しましょう。

  次回は『報恩抄』(平成新編御書 九九九)の予定です

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