大白法1078号 令和04年06月1日より転載

御書解説254 背景と大意

 道場神守護事

御書1052頁


一、御述作の由来

 本抄は、建治二(一二七六)年十二月十三日、日蓮大聖人様が御年五十五歳の時に身延において認められた御消息です。御真蹟は全五紙が中山法華経寺(日蓮宗)に現存しています。
 本抄の対告衆については不詳ですが、御真蹟が中山法華経寺にあることから、富木常忍か、あるいは下総方面の信徒に宛てられたものと推定されます。

二、本抄の大意

 初めに、銭五貫文の御供養に対する御礼を述べられます。次いで、身延は人里離れた深山であり、衣食が乏しいために読経・談義も続けられないほどたいへんな様子を述べられ、貴方(対告衆)にあった託宣(神仏のお告げ)は、法華守護の善神である十羅刹女の計らいによって、貴方に檀那としての功徳を積ませようとしたものであろう、と述べられます。
 次に、天台大師の『摩訶止観』にある「帝釈の堂を小鬼が敬って避けるように、道場の神※(1)が偉大であれば妄りに病に冒されることはない。また城主が剛ければ守る者も強く、城主が怖じける時は守る者も怖れる。心は身の主であり、同名・同生天はよく人を守護する。心が堅固であれば天の守りも強い。身の神でさえそうであるから、まして道場の神はなおさらである」(止会下三四〇)との文。さらに妙楽大師の『摩詞止観輔行伝弘決』にある「同名・同生天が常に人を護るといっても、それは必ずその人の心の堅固さによって神の守りも強くなるということ」「身の両肩の神でさえ常に人を護る。まして道場の神はなおさらである」(同)との文を引かれて、心が堅固であれば神の守護も強いことを述べられます。
 次に、『法華文句』の「賊でさえ南無仏と称したことで天人像の金の頭を得たのである。まして賢者が南無仏と称するならば、十方の尊神が守護しないはずはない。故に怠らず精進せよ。懈怠してはならない」(文会上767)との文を挙げられた上で、この文意を解釈されます。
 そして、これらの例から推し量ると、たとえ科がある者でも、三宝(仏・法・僧)を信ずるならば大難を免れるであろうと述べられます。次いで、貴方が示された託宣の書状は、かねてから承知していることであり、これについて思索すると、これは難が去って福が招来する先兆であると教示されます。
 そして、妙法蓮華経の妙の一字について、竜樹菩薩の『大智度論』(大薬師の能く毒を以て薬と為す)(大正蔵25巻754b・国訳釈経論部05下280)と、天台大師の『法華玄義』にある「変毒為薬」(良医の能く毒を変じて薬と為す)(玄会下99)の釈を挙げてその功徳を明示され、たとえ災いが来たとしても、それを変じて幸いとなすこと。さらに十羅刹女が道場の守護も兼ね備えると仰せられます。
 最後に、『摩詞止観』に説かれる「薪が火を盛んにし、風が伽羅求羅〈からぐら〉を大きくする」(止会中187)とはこのことであると述べられ、障魔に負けず、さらに精進するよう督励されて、本抄を結ばれています。

 同生天〈どうしょうてん〉・同名天〈どうみょうてん〉

 大聖人様は本抄において、
 「人所生の時より二神守護す。所謂同生天・同名天、是を倶生神と云ふ。華厳経の文なり」
と仰せです。この同生・同名の二神について、『四条金吾殿女房御返事』には、
 「人の身には左右の肩あり。このかたに二つの神をはします。一をば同名神、二をば同生神と申す。(中略)母の腹の内に入りしよりこのかた一生ををわるまで、影のごとく眼のごとくつき随ひて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば、つゆちりばかりものこさず、天にうたへまいらせ候なるぞ」(御書 七五七)
と詳しく教示されています。
 すべての人の両肩には、母の胎内に生を受けた時から同生天・同名天という倶生神が宿り、一生の間、その人の善悪のすべての行為を天に上って詳細に報告するとされているのです。ですから、人知れず悪事を行ったとしても、それはすべて諸天の知るところであり、悪行の報いは、必ず自身が受けなければならないのです。
 一方、誰に褒められずとも、心底より御本尊様を信じ、日々の勤行・唱題、折伏を実践する人は、その善行の果報が必ず顕われて、一生成仏の大功徳を得ることができるのです。

 「南無仏」と称する功徳

 大聖人様は本抄に、『法華文句』の、
 「賊南無仏と称して尚天頭を得たり。况んや賢者称せば十方の尊神敢へて当たらざらんや。但精進せよ懈怠すること勿れ」との文を引用されています。
 これは盗人が、どうしても盗むことのできなかった天人像の黄金の頭を、ある時仏前において盗み聞いた「南無仏」の語を称しただけで、諸天が驚動(驚怖・驚覚、怖れおののく)し、守護の力を失ってあっさりと盗むことができた。そして、それを知った人々は皆、神を捨てて仏に帰依した。賊が称してさえそうなのであるから、賢者(法華経を信仰する者)が「南無仏」と称したならば、その果報は計り知れない。故に懈怠なく精進しなさいと勧めたものです。
 大聖人様は本抄で、たとえ罪業があっても三宝を信ずれば大難を免れると仰せですが、その真意を明かせば、末法においては本門戒壇の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経の題目を唱えることこそ、大難を免れ福を招き寄せる秘訣であるということです。

 変毒為薬の功徳

 本抄の後段に、インドの竜樹菩薩が著した『大智度論』の「能く毒を変じて薬と為す」の文を引かれて、妙法蓮華経の妙の一字に具わる「変毒為薬」の功徳について教示されています。
 これについて『始聞仏乗義』に、
 「竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して『譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し』等云云。毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ。法身・般若・解脱なり。『能以毒為薬』とは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ。天台云はく『妙とは不可思議に名づく』等云云。(中略)即身成仏と申すは此是なり」(同 一二〇八)
と教示されています。
 つまり、変毒為薬とは、煩悩・業・苦の三道の身を法身・般若・解脱の三徳の身と変えることであり、その実義は即身成仏であるということです。末法今時にあっては、御本仏大聖人様の顕わされた三大秘法の妙法を受持し、信行に励むことによって、その絶大なる即身成仏の功徳を享受することができるのです。

 障魔を打ち破る信心

 大聖人様は、本抄の末尾に
 「薪の火を熾んにし風の求羅を益すとは是なり」
との『摩詞止観』の一節を挙げられています。
 「薪の火を熾んにし」とは、火に薪を加えれば、火の勢いがますます盛んになることをいい、「風の求羅を益す」とは、身体が微細な迦羅求羅という虫は、風を得るとその身体が大きくなるというものです。
 『四条金吾殿御返事』には、
 「法華経の行者は火とぐらとの如し。薪と 風とは大難の如し。法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝をきられまでられん事疑ひなかるべし。此より後は『此経難持』の四字を暫時もわすれず案じ給ふべし」(同 七七六)
と、法華経の行者は「火」と「求羅」のようなものであり、大難は「薪」と「風」のようなものであると仰せられています。
 また『聖愚問答抄』には、
 「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。充 天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。(中略)薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、豈好き事にあらずや」 (同 四〇九)
と、人間の意思は弱いので初めは信心があるように見えても、途中で魔に紛動されて退転してしまう。逆風や障魔に襲われた時には、心を掻き乱されたり、それらに屈することなく、むしろそれを仏道修行に邁進する糧としていくように、と教示されています。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「正しい信心をしていけば、魔は紛然とし て起こり、我々の信心を阻止しようとしま す。あらゆる手段を使って邪魔するのです。
 しかしそれは、まさしく我々が正しい信心 をしているからでありまして、魔が騒がないような信心では、過去遠々劫から積み重ねてきた罪障を消滅することができないのであります。(中略)ですから、一人ひとりが、来るなら来いという信心の覚悟を持って、魔に立ち向かっていくことが大事なのです」(大白法 九九〇号)
と、魔が騒がないような脆弱な信心では罪障消滅もできないと仰せられ、覚悟を持って魔に立ち向かうよう御指南されています。末法濁悪の混沌とした世情にあって、正法弘通を阻む障魔が盛んに競い起こる今こそ、自行化他の信行に邁進してまいりましょう。

   次回は『種々御振舞御書』(平成新編御書 一〇五五)の予定です

※(1)道場の神。帝釈天のこと。雑阿含経の夜叉経(大正蔵2巻291a・国訳阿含部3巻121)には、姿形の醜い夜叉が帝釈の座の上に近づこうとするが、瞋恚や悪心を生ぜず、固い心をもっている帝釈の威厳を怖れ、姿を消してしまったという故事が示されており、止観の内容はこれを要約したもの。信心堅固な人は魔を退けるとともに、道場の神および同生同名天の守護があるとされる。

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