大白法1086号 令和04年10月1日より転載

御書解説257 背景と大意

乗明聖人御返事

御書1116頁


一、御述作の由来

 本抄は、建治三(一二七七)年四月十二日、大聖人様が御年五十六歳の時、身延において認められ、太田乗明に与えられた御消息です。御真蹟は下総中山(現在の千葉県市川市中山)の法華経寺(日蓮宗)に現存しています。本抄は『金珠女〈こんじゅにょ〉抄』とも称されます。
 太田乗明は、鎌倉幕府の問注所の役人で、正式には太田五郎左衛門尉乗明と称し、太田金吾ともいいます。
 同郷の富木常忍の折伏によって大聖人様に帰依し、中山を中心に信仰に励みました。
 なお、本抄末尾の宛名から判るように、大聖人様より聖人号と共に「妙日」との尊号を賜っています。
 太田氏は、『転重軽受法門』や弘安五(一二八二)年の『三大秘法稟承事』などの重要な法門書を戴いていることから、御法門を深く理解していたことと、御書の保管に努めていたことが判ります。

一、本抄の大意

 初めに、相模国鎌倉から銭二結(銅銭二千枚)を甲斐国身延まで送られたことへの御礼を述べられます。
 次に、昔、金珠という女人が金銭一文を御供養して仏像の金箔とした功徳によって、九十一劫もの長い間、金色の身となった故事を挙げ、またその夫の鍛金師〈かじし〉が今の迦葉(釈尊在世・十大弟子の一人)であり、未来の光明如来であることを述べられます。
 次に、今の乗明法師妙日とその妻が、銅銭二千枚を法華経に供養したことを述べられます。
 そして、かの金珠女は仏に対する供養であり、太田夫妻は法華経への供養であること。また経は師であり、仏は弟子であることを教示され、経証として、涅槃経『如来性品第四』の「諸仏が師とするのは法である。その故に諸仏は経を敬い尊んで供養する」(大正蔵12-627c・国訳涅槃部1-96)との文、また法華経『薬王菩薩本事品第二十三』の「もしまた人が金・銀・瑠璃などの七つの宝を三千大千世界に満ちさせ、仏及び大菩薩、辟支仏や阿羅漢を供養したとする。この人の得る功徳も、この法華経の一四句偈を受持することによって得る福徳の最も多いのには及ばない」(法華経532)との文を挙げられます。
 次いで、法華経より劣った仏を供養しても九十一劫もの間、金色の身となったのであるから、それよりも勝れた法華経を供養した施主が一生の間に仏の境界に至らないことがあろうかと、その功徳の甚大なることを称賛されます。
 最後に、ただし真言・禅宗・念仏者などの謗法者による法華経への供養は、そこから除外されることを念告され、それは例えば、修羅を尊崇しながら帝釈を帰敬するようなものであると誡められ、本抄を締め括られています。

三、拝読のポイント

 金珠女の説話

 本抄において大聖人様は、太田乗明か銅銭二千枚を御供養されたことについて、金珠女の喩えを引いて讃歎されています。
 『付法蔵因縁伝』(大正蔵50-298a・国訳護教部4上-132)に説かれる金珠女の説話の概要を挙げると、毘婆戸仏が入滅し、それを悲しんだ門下が七宝の塔を建てます。しかし、その中に安置された如来像の顔の金箔が少し欠けていたのです。その時、一人の貧女が乞食行をし、一つの金珠を得ました。貧女はその金珠を金箔にし、如来像を補修しようと思い立ち、鍛金師に依頼して修復しました。その功徳によって、以後、鍛金師と貧女の二人は常に夫婦となり、身は金色となり、人天において最上の楽を受けたというものです。
 この時の鍛金師が、法華経『授記品第六』において、光明如来の記別を受けた迦葉尊者です。
 本抄では、鍛金師を太田乗明、金珠女を乗明の夫人になぞらえていますが、特に金珠女の喩えを挙げられたのは、その御供養が乗明のみならず、夫人の志に基づくものであったからでしょう。

 御本尊への御供養は功徳甚大

 また大聖人様は、乗明夫妻の御供養が金珠女の供養に勝ることを、
 「彼は仏なり此は経なり。経は師なり仏は弟子なり」
と、師と弟子という対境の相異を挙げて、その功徳の勝劣を教示されています。
 釈尊滅後における法華経への供養について、大聖人様は『御衣布並単衣御書』に、
 「衣かたびらは一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。(中略)『応化は真仏に非ず』と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。仏の在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏の滅後に法華経を信ずる人は『無一不成仏』とは如来の金言なり」(御書 九〇八)
と、法華経の文字は一々が仏であり、真仏であり、滅後末法に法華経を信ずる人は必ず成仏すると仰せです。
 そして、『上野郷主等御返事』には、
 「昔の徳勝童子は土のもちゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となる。今の檀那等は二十枚の金のもちゐを法華経の御前にさゝげたり。後生の仏は疑ひなし。なんぞ今生にそのしるしなからむ」(同 一五八七)
と、法華経(御本尊)に御供養申し上げる人は、その功徳によって一生成仏することを教示されています。
 私たちは、末法下種の南無妙法蓮華経の御本尊に対する御供養の功徳の甚大なることを確信し、いよいよ信行に励んでいくことが肝要です。

 真心からの御供養こそ大事

 本抄において大聖人様は、妙法を純粋に信仰し、尊い御供養をした太田乗明夫妻が一生成仏を遂げることを仰せですが、続く文に、
 「但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし」
と、もし邪宗邪義を信奉する謗法の者が法華経に供養したとしても、そこには何の功徳も具わらないことを仰せです。
(※この文は、乗明夫妻への、謗法への供養をしてはいけないとの指南と解される)
 そして、その譬えとして、あたかも帝釈天と戦闘を繰り返す阿修羅を崇拝していながら、敵対する帝釈天にも帰依するようなものであると喝破されています。
 毒に仙薬を混ぜても、それは毒であり、諸病を治す薬とはならないように、邪宗に帰依する者が併せて正法の法華経(御本尊)に供養したとしても、謗法による罪障が消えることはないのです。
 総本山第二十六世日寛上人が『松任次兵衛殿御報』(妙喜寺蔵)に、
 「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候ひて御供養候とも、もし信心なくばせんなき事なるべし。たとヘー滴一塵なりとも信心誠あらは大果報を得べし」(宗旨建立と七五〇年の法灯六八・諸記録5-312)
と仰せのように、御供養の際には信心の志が最も大切となります。
 私たちは、一切の謗法の念慮を断ち、信心根本に真心からの御供養を申し上げていくところに、大きな功徳が得られることを忘れてはなりません。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「我々が折伏しなければ、謗法は滅びないのです。
 今の日本の国を、よく御覧なさい。念仏の者、真言の者、池田創価学会の者など、たくさんいるではありませんか。これらの教えは、自然には滅びません。私達が折伏するから滅びるのです。私達が折伏しなければ、謗法は消滅しないのです」(大白法 八一八号・h230619夏期講2期 大日蓮786H2308-P48)
と御指南されています。
 私たちは、コロナ禍などの障害や困難を乗り越え、慈悲の折伏を実践し、災難の根本原因である諸宗の邪義謗法を退治していくことが自他の成仏の上で最も肝要です。
 広宣流布大願成就のため、本年の各支部折伏誓願目標を完遂してまいりましょう。

 次回は『頼基陳状』(平成新編御書 一一二六)の予定です

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