大白法1094号 令和05年2月1日より転載

御書解説260 背景と大意

兵衛志殿女房御返事

御書1180頁


一、御述作の由来

 本抄は、建治三(一二七七)年十一月七日、日蓮大聖人様が御年五十六歳の時、身延において認められ、「銅の御器」を御供養した武蔵国池上(東京都大田区)に住する池上兵衛志〈ひょうえのさかん〉宗長〈むねなが〉の女房に与えられた御手紙です。御真蹟は現存しません。
 夫の池上宗長は、兄の宗仲と共に康元元(一二五六)年頃、大聖人様に帰依しています。兄・宗仲に比べると、弟・宗長の信仰はまだ弱かったようです。一方、兄弟の父・池上康光は、極楽寺良観(真言律宗)の強信者であったことから、息子たちが大聖人様に帰依することに猛反対でした。
 本抄述作の前年である建治二年、康光は良観の指図により兄の宗仲を勘当し、弟の宗長に家督を譲ると言って、信仰と世俗の両面で兄弟を仲違いさせようとしました。
 建治二年四月、大聖人様から「兄弟が力を合わせ、この信仰を貫くことが真の孝養になる(趣意)」(『兄弟抄』御書九七七)との御教示を賜った宗長は、兄や妻たちと一致団結して父を諌め、同年暮れ頃、兄の勘当を解くことができたのです。
 ところが翌建治三年六月、良観が庇護する僧・竜象房が桑ケ谷問答において、大聖人様の弟子・三位房に惨敗を喫しました。これを機に、大聖人様やその門下を憎む良観が再度、康光に入れ知恵して兄弟に改宗を迫ると見抜かれた大聖人様は、同年八月、宗長に書状を送り不退転の信心を訓誡されました(『兵衛志殿御返事』御書一一六六)。
 同年十一月頃、大聖人様が予期した通り、良観は康光を抱き込み、再び信心強盛な宗仲を勘当させ、宗長に家督を継がせて兄弟の仲を引き裂こうとしました。
 大聖人様は、この宗仲の二度目の勘当を受け、同月二十日付の『兵衛志殿御返事』(同一一八二)に、法華経の敵である父には従わず、篤信の兄に同心するよう重ねて諭されました。また同抄の中には、
 「貴殿の女房には、ここ身延において、宗仲殿は必ず勘当されるであろうが、そうなると宗長殿は心もとないので、ぜひとも女房のあなたがしっかりとした心得をもって対処するよう申し上げた(趣意)」(御書一一八三)
と仰せられており、本抄には触れられていませんが、宗長の夫人は義兄の再勘当が現実味を帯びてきた頃、大聖人様に夫の取るべき行動について御教導を賜るため、身延の山中に詣でていたことが判ります。その時に夫人が大聖人様に御供養されたのが、本抄の「銅の御器」です。
 宗長は、大聖人様から賜った訓誡と激励の書状をはじめ、こうした妻の姿に触れ、世俗の利権に揺れる心を払拭して法華経の信仰を貫くことを固く決意しました。
 その結果、翌建治四年正月頃には、兄の両度の勘当が解かれ、その後、猛反対であった父をついに大聖人様に帰依させることができたのです。

二、本抄の大意

 初めに、銅の御器を二つ頂戴した旨が述べられます。そして釈尊に供養した牧牛女・毘沙門天等の説話に寄せ、供養された夫人に感謝の意を表されます。
 すなわち、釈尊が三十歳で悟りを開かれた時、牧牛女と呼ばれる女人が乳粥を供養しようとしたが、それを入れる器がなかったことを仰せられます。
 その時に毘沙門天等の四天王が一鉢ずつ、計四鉢を釈尊に供養され、釈尊は神力によりその四つの鉢を重ねて一つと成し、牧牛女はその鉢に粥を入れて供養したので、釈尊は成道することができたと明かされます。
 そして、その鉢は後に誰も盛り付けることがなくても、常に飯で満たされていたことを述べられます。また、後には馬鳴菩薩がその鉢を伝え、三貫(三億)の代価になったことを示されます。
 最後に、今、夫人が二つの銅の御器を携えて千里の道を足を運び供養された功徳は、牧牛女と四天王が釈尊に御供養した功徳と同じように大きいと示され、ここではその詳細を控えると述べられて本抄を結ばれています。
 なお、本抄に出てくる牧牛女とは、『過去現在因果経』(大正蔵3巻639b・国訳本縁部4巻73)によれば「難陀婆羅〈なんだばら〉」ともいい、十二年間にわたる苦行を止めて尼連禅河〈にれんぜんが〉で沐浴した悉達〈しった〉太子(釈尊の成道以前の名)に乳粥を供養した女人のことです。
 また、馬鳴菩薩と仏の鉢の説話は、『付法蔵因縁伝』(大正蔵50巻315b国訳護教部4上242)に見られます。すなわち、摩竭陀国の華氏城は月氏国の迦膩色迦〈かにしか〉王に攻められた時、同王から九億もの金銭を要求されます。そこで華氏城の王は馬鳴菩薩、仏の鉢、そして一羽の慈心鶏〈じしんけい〉を各三億にあてて迦膩色迦王に献上したところ、同王は喜んで本国に持ち帰ったという話です。

三、拝読のポイント 

 御供養の功徳

 大聖人様は本抄に、宗長の夫人による御供養の功徳について、牧牛女や毘沙門天等の説話をもって示されています。
 まず、牧牛女が釈尊に供養した乳粥の功徳について、『涅槃経』(上座部・パーリ語経典)に、
 「私(釈尊)の生涯で二つの勝れた供養が ある。一つは牧牛女の乳粥で、それにより 悟りを開くことができた。二つは純陀の 供養で、それにより涅槃の境地に入ること ができた。二つの供養の食べ物は、他の供 養の食べ物よりもはるかに勝れた果報があ り、はるかに勝れた功徳がある(趣意)」(中村元訳『ブッダ最後の旅』 一二三)(北伝・大正蔵12巻372b・国訳涅槃部1巻46・南伝・大正蔵12巻612a・新国訳涅槃部1巻131)
と説かれています。
 大聖人様は『秋元御書』に、
 「今此の筒の御器は固く厚く候上、漆浄く候へば、法華経の御信力の堅固なる事を顕はし給ふか。毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて、四天下第一の福天と云はれ給ふ。浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音菩薩と成り給ふ。今法華経に筒御器三十、盞〈さかずき〉六十進らせて、争でか仏に成らせ給はざるべき」(御書一四四八)
と、四天王の上首・毘沙門天や浄徳夫人による御供養の功徳を挙げられて、秋元殿の成仏が疑いないことを教えられています。
 本抄には、
 「かの福のごとくなるべし」
と、牧牛女と四天王が得た具体的な功徳は略されていますが、大聖人様は宗長の夫人にも、こうした福徳が具わり、必ず即身成仏できることを説示されているのです。

 財の供養と法の供養

 大聖人様は本抄において、宗長の夫人の御供養の志を讃歎されています。そもそも、供養とは「供給資養」の義で、仏法僧の三宝を敬い、財物等を捧げ奉ることを言います。
 供養については諸々の経論に種々説かれていますが、ここでは本抄の御聖意から「財の供養」と「法の供養」について挙げます。
 まず、「財の供養」とは、自らの財物や食べ物、香華などを御本尊に供養することです。これにより正法が興隆し、尽未来際までも人々が大御本尊の御利益に浴することができるのです。夫人による二つの銅の御器の御供養も、これに当たります。
 次に「法の供養」とは正法を施すことで、未入信の人々に大聖人様の妙法を説くこと、また入信して間もない人を励ましながら信心を教えることなどがこれに当たります。つまり、正法を説き弘めていくことが法の供養です。
 宗長の夫人が信仰的苦境に立つ夫を励ましながら、時には大聖人様に御教導を賜るため身延まで参詣し、さらに義兄夫妻と共に四人で力を合わせて義父を折伏したことは法の供養と言えます。
 私たちは本門戒壇の大御本尊の広大なる御恩徳に報い奉り、自他共に成仏の大功徳を得ることをめざし、いよいよ財・法の供養に励んでいきましょう。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「なぜお釈迦様を供養するより、末法の法華経の行者である日蓮大聖人様を供養する功徳のほうが勝れているか、それは大聖人様が久遠元初の仏様すなわち末法の御本仏であられるからなのです。今日、我々が大聖人様に供養し奉る信行を立てることこそ、一番尊いことになるのであります」(大白法730・H191201-5面6段・御法主日如上人猊下御講義集『功徳要文』273)
と御指南されています。
 私たちは、御供養の精神を忘れることなく、一層、自行化他の信行に精進してまいりましょう。





  次回は『太田殿女房御返事』(平成新編御書 一一八一)の予定です


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