大白法1100号 令和05年5月1日より転載

御書解説263 背景と大意

実相寺御書

御書1195頁


一、御述作の由来

 本抄は、建治四(一二七八)年一月十六日、大聖人様が御年五十七歳の時、身延において認められた御書で、駿河国(静岡県)実相寺の住侶(その寺に住む僧侶)・豊前公の質問に対する御返事です。御真蹟は現存せず、日興上人の写本が北山本門寺(日蓮宗)に蔵されています。
 対告衆の豊前公は、日興上人の『弟子分本尊目録』によれば、同寺住侶の筑前房の娘を妻としていることが判ります。
 また、本抄に仰せの四十九院の別当は、日興上人が同時期に著された『四十九院申状』に、「寺務二位律師厳誉」とあることから、別当とあるのはこの厳誉と考えられます。それ以外の尾張阿闍梨、小田一房等については不詳です。
 なお、本抄は『平成校定御書』では、文頭の「新春の御札」から「返す返す」までを『実相寺御書』、それ以降の「四十九院等の事」から末尾までを『四十九院等事』として分割収録されています。

二、本抄の大意

 初めに、新春の豊前公からの書状の中に、実相寺の住侶・尾張阿闍梨が「法華玄義第四巻に涅槃経を引いて、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破すのは盲目の因(誤り)であると解釈されている」と言っているそうだが、それは事実であろうかと仰せられ、続いて、もし小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破す者が盲目ならば、日本の弘法・慈覚・智証等は盲目となったのか。また中国の善無畏・金剛智・不空等は盲目となったと言うのかと、厳しく問い返しなさいと述べられます。
 次いで、『法華玄義』と、その釈である『法華玄義釈籤』を引かれて、尾張阿闍梨はこの麁法・妙法の解釈に迷う者であるとし、その正しい解釈を「『釈籤』に示される一向尚理(一向に理を尚ぶ)とは達磨宗(禅宗)、執実謗権(実に執して権を謗ず)とは華厳宗・真言宗、一向尚事(一向に事を尚ぶ)とは浄土宗・律宗、謗実許権(実を謗じ権を許す)とは法相宗である」と教示されます。
 続いて、法華経の妙の一字に二義があり、一には相待妙で、麁法を破して妙法を顕わす(破麁顕妙)。二には絶待妙で、麁法を開会して妙法を顕わす(開麁顕妙)と示され、法華経以外の諸経は破麁顕妙の一部分が説かれるのみで、開麁顕妙は説かれていないことを述べられます。
 次いで、にもかかわらず爾前諸経を依拠とする人師は、それらの経々に破麁顕妙・開麁顕妙の二妙が存するとし、天台大師の智慧を盗みとっている。あたかも民家に天下国家を収めようとするものである。たとえ諸経に開麁が存するとしても破麁の義は免れず、まして一向執権・一向執実等の者はなおさらであるのに、尾張阿闍梨が自分の間違いを顧みず嫉妬する有り様は、自分の目が回っているのを、大山が眩〈まわ〉っていると見るようなものである。先に実経をもって権経を破し、権執を絶して実経に入るのは、釈迦・多宝・十方の諸仏の常の作法である。もしも実経をもって権経を破す者を盲目と言うのであれば、釈尊は盲目の人か、天台・伝教は盲目の人師となるのか。まことに笑うべき主張であると、破折の内容を教示されます。
 次に、四十九院等については、別当らは無智の者であるため、日蓮に恐れをなし、徒党の小田一房等が怨をなすであろうが、それはいよいよ彼らの邪法が滅する先兆である。「根が露わになれば枝は枯れ、源が竭〈つ〉きれば流れも尽きる」(止会中61)という『摩訶止観』の文の通りであると述べられます。
 次いで、弘法・慈覚・智証の三大師が法華経を誹謗した大科は四百余年の間隠されていたが、根が露見すれば枝は枯れるのであり、今日蓮がこの大科を糾明すれば、拘留外道(●(さんずい+區)楼僧●(人+去)のこと。バラモンの三仙の一人。勝論派の祖)が死を恐れ石となり数百年後に陳那〈じんな〉菩薩に責められてその石が水となったように、また尼健子〈にけんじ〉外道(尼乾陀若提子〈にけんだにゃくだいし〉のこと。ジャイナ教の祖。六師外道の一つ)が立てた塔が馬鳴菩薩の弟子である栴檀●((罪−非)+(灰−火)+炎+(到−至))昵●(咤ーウ)〈せんだんけいにだ〉王が礼拝すると崩れてしまった(付法蔵経・大正蔵50-315b・国訳護教部4上242)ように、邪法は滅尽すると仰せられます。
 そして、寝ている師子に手を触れれば瞋るように、邪法を破折することにより迫害があると述べられ、本抄を終えられます。

三、拝読のポイント

 相待妙と絶待妙

 大聖人様は本抄において、尾張阿闍梨の「開会の後は権実一であり、法華経だけではなく爾前諸経にも成仏の功徳がある」との主張が間違いであるとし、尾張阿闍梨がその根拠とした『法華玄義』の文について、正しい解釈を御示しになられています。
 そして、その中で相待妙・絶待妙の二妙について御教示です。相待妙・絶待妙とは、天台大師が『法華玄義』に示された「妙」の一字を通釈する教判です。
 相待妙とは、爾前諸経と法華経とを比較相対し、爾前諸経を麁法として破し、法華経を妙法と判釈します。爾前経にも部分的に円教の教えが説かれていますが、法華経の純円に対すれば「爾前の円」としてこれを区別します。総本山第二十六世日寛上人は『開目抄文段』に、
 「爾前の円は法華の相待妙に対するに悪なり。相待妙に同ずるとも、絶待妙に対すれば悪なり。前三教に摂すれば猶悪なり云云」(御書文段 一七三)
と、爾前の円は法華経の相待妙と比較すれば悪となり、またもし法華経の相待妙と同じと見た時も、法華経の絶待妙に対すれば悪となるのである。さらに蔵・通・別の前三教と一緒に説かれたものであれば、なおさら悪となると教示されています。
 絶待妙とは、麁法と妙法を相対するのではなく、絶待の妙法の上から、麁法をそのまま妙法と開会することをいいます。これは、爾前諸経が法華経より生じた一部分の教法であり、その根底には妙法が説かれていることを示されています。
 ただし、大聖人様は『諸宗問答抄』に、
 「法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは云はざるなり」(御書 三三)
と、法華の体内に会入されても、爾前諸経が実経の法華経と全同とはならないことから、体内の権と称することを御教示です。
 さらに、大聖人様は『百六箇抄』に、
 「日蓮は脱の二妙を迹と為し、種の二妙を本と定む。然して相待は迹、絶待は本なり」(同 一七〇〇)
と、文上脱益の二妙を迹とし、文底下種の二妙を本とすると御教示です。
 さらに、下種の二妙にも本迹があり、下種の相待妙を迹、下種の絶待妙を本とします。この下種絶待妙の法体こそが、仏法の当体です。つまり、絶待妙とは妙法の大漫荼羅本尊であり、本門戒壇の大御本尊こそ、御本仏日蓮大聖人の一身に具わる絶待妙の法体なのです。
 私たちは、本門戒壇の大御本尊を信じ、血脈付法の御法主上人猊下の御指南に信伏随従して日々信行に励むところに成仏の直道が存することを忘れてはなりません。

 謗法破折が肝要

 大聖人様は本抄において、「隠れている根が地面に露わになれば樹木が枯れる」「源が竭きれば流れも尽きる」との譬えを挙げられ、法華経を誹謗する真言宗の開祖弘法、天台宗を密教化させた慈覚・智証の三人の大科を破折することによって、四百余年の間、蔓延ってきた邪法が滅尽することを示されています。
 また、大聖人様が外道の石や塔の譬えをもって示されているように、謗法を根源から破折することによって、必ずその邪法を断つことができます。
 さらに、眠れる師子の譬えのように、謗法を破折すれば、それらを依経とする者たちが瞋り狂い、必ず迫害を加えてきます。
 大聖人様は『異体同心事』に、
 「悪は多けれども一善にかつ事なし」(同 一三九〇)
と御教示です。私たちが今なすべきは、迫害を恐れず破邪顕正の折伏を行じていくことです。邪宗の邪宗たる所以を白日のもとに晒すことによってその源を断つことができ、さらに相手の誤った教えに対する執着をも断つことができます。謗法の念慮を絶し、御本尊に向かって御題目を真剣に唱えることによって、即身成仏の大功徳が得られることを肝に銘じていきましょう。そして、邪宗邪義を根源から一掃するため、慈悲の折伏を実践していくことが肝要です。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「今こそ、五濁乱漫たる末法濁悪の世の中にあって、不幸と混乱と苦悩の原因たる邪義邪宗の謗法を対治し、全人類の幸せを目指して果敢に折伏を行じ、もって広大無辺なる仏恩に報い奉っていかなければならない大事な時と知るべきであります」(大白法 一〇九三号)
と御指南されています。
 宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年を寿ぎ奉る慶祝記念総登山が行われている今こそ、仏恩報謝の誠を尽くすべく、広宣流布大願成就に向けて果敢に折伏弘通に精進してまいりましょう。

  次回は『始聞仏乗義』(平成新編御書 一二〇七)の予定です


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