大白法1102号 令和05年6月1日より転載

御書解説264 背景と大意

始聞仏乗義

御書1207頁 別名 就類種相対種法門事 就類相対抄


一、御述作の由来

 本抄は、建治四(一二七八)年二月二十八日、日蓮大聖人様が御年五十七歳の時、身延において認められ、下総国葛飾郡八幡庄若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍に与えられた御書です。
 題号は後代に付けられたもので、「始聞仏乗」とは、抄末の、
 「始めて法華経を聞くなり(始聞法華経也)」
の御文に依るとされます。初めて法華経の仏乗種の真義を聞き即身成仏の功徳を得ることを表わしています。
 御真蹟は、中山法華経寺(日蓮宗)に現存しており、「就類種相対種法門事」「就類相対抄」等の異称があります。
 富木氏は、大聖人様が建長五(一二五三)年に宗旨建立なさった後、間もなくして帰依した最初期の檀越です。生涯門下の重鎮として外護の任を全うし、現在まで多くの御書を伝えるなど、非常に大きな役割を果たしました。
 鎌倉幕府の御家人、下総国守護千葉氏に仕えた文書官とも伝えられますが、教養が高く、本抄の内容からも特に天台の法門に対する学識の高さがうかがえます。
 建治二年二月下旬、富木常忍の母親が九十歳で逝去しました。その菩提を弔うため、翌月、富木氏は遺骨を奉持し、身延の大聖人様のもとへ参詣して追善供養をお願いしました。富木氏の、母親に対する日頃の孝養の姿や、心情の変化が、同年三月三十日の『忘持経事』(御書九五六)に克明に記されています。(本紙四七三号参照)
 二年後の建治四年、富木氏は大聖人様に母親の三回忌の追善回向をお願いしました。この時、大聖人様のもとに届けられた御供養に対する返書が本抄です。

二、本抄の大意

 初めに母の第三回忌に当たり銭七貫の御供養を届けた常忍の孝養を讃えられます。次いで、九問九答による問答形式を用いて、末法時代の凡夫の成仏について説示されます。
 第一の問答は、天台の『摩訶止観』の冒頭にある、
 「止観明静前代未聞(止観の明静なること、前代に未だ聞かず)」
の語が何を意味しているか、との問を設け、これに対する第一の答えから第三問答にかけて、この言葉が円頓止観を賞賛する意味であること、円頓止観が法華三昧の異名であり、末法において凡夫が法華経を修行する方法には、一に就類種の開会、二に相対種の開会の二種があることを示されます。
 次の第四問答で、この二種の開会の典拠が法華経『薬草喩品第五』の、
 「種相体性」(法華経二一八)
の四字、中でも「種」の字にあるが、就類種は爾前諸経にも少分通じることを、妙楽大師の『法華文句記』を引いて明かされます。
 そして第五問答以降では、相対種についての御法門が述べられ、第五・第六問答では、『摩詞止観』に基づいて、煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と開くことが相対種の意であると示されます。
 次いで第七問答では、悪因である三道から善の果報が生ずるのは仏教の道理に反しているのではないか、との問いが設けられます。その答えとして、竜樹菩薩が『大智度論』で法華経が般若経より勝れることを説いた
 「譬如大薬師能以毒為薬(譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し)」(大正蔵25-754b)
の文と、天台大師の釈を引かれ、この妙不可思議の相対種開会の境界が、即身成仏であることを明かされます。そして、即身成仏義を盗み取る華厳宗・真言宗は天下の盗人であると断言されます。
 さらに第八問答では、果たして凡夫もこの即身成仏の秘法を知ることができるのか、との問いを設けられ、答えとして『大智度論』を引用され、ただ信じるところに成仏があるのであって、菩薩すら思慮の及ぶところではなく、末法時代の凡夫など到底知ることはできないと示されます。その上で、法華経による凡夫の成仏が疑いないのは、爾前諸経において永不成仏とされた二乗すら成仏すると説かれているからであり、だからこそ竜樹菩薩は、法華経が秘密の法であると決判していると、天台大師・妙楽大師の釈を用いて証されます。
 そして第九問答では、この法門を聴聞してどのような利益を得られるのか、との問いを設けられ、この相対種の法門を聞くことによって、初めて法華経の法門を本当に聞いたことになると答えられます。
 最後に、私たち末法の凡夫が法華経を聞いて成仏する時、父母もまた即身成仏する、これが第一の孝養であると仰せられ、大聖人様御自身が病身であるため詳細は改めて申し上げると記されて、本抄を結ばれています。

三、拝読のポイント

 法華経に説かれる真の即身成仏

 本抄では、末法における法華経修行の方途について、就類種・相対種という天台所立の法門を基に、法華一仏乗による即身成仏義が説示されています。
 就類種とは、衆生が小善を積み重ねて、それを仏因とすることで、正・了・縁の三因仏性を妙法により開発し、大善へと開会して成仏する意です。
 一方、相対種とは、衆生に本然的に具わる煩悩・業・苦の迷いの因果を妙法の功徳により、直ちに法身・般若・解脱の悟りの因果に能転して成仏する意です。
 就類種が善因から善の果報へと開くのに対し、相対種は悪因がそのまま善の果報として開かれるのです。
 本抄においては、相対種を説かれる中で、
 「我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し、今法華経に値ひて三道即三徳となるなり」
と仰せられ、さらに『大智度論』の「変毒為薬」の譬えをもって、迷いや欲望の毒を断ずることなく徳に転じ、凡夫の身そのままで成仏に至ることを仰せられています。
 『当体義抄』に、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 六九四)
と仰せのように、大聖人様は三道即三徳とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人の功徳であることを御教示です。
 なお、本抄では詳細を別の機会に譲られて
いますが、『妙一女御返事』に、
 「法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり」(同 一四九九)
と仰せのように、法華経に即身成仏が説かれるといっても、そこには迫門と本門・理と事の立て分けがあり、像法の天台・妙楽等の説示は、末法の成仏の法とはならないのです。末法においては大聖人様の下種仏法、すなわち文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが、衆生救済の即身成仏の秘法となるのです。

 正しい孝養の在り方

 本抄において大聖人様は、
 「末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり」
と、法華経の法門を聴聞することが、父母への最上の孝養となることを御教示です。
 『忘持経事』に、
 「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬えば種子と影と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目●(牛+健)尊者は同時の成仏なり」(同 九五八)
とあるように、私たちの五体は即、父母の五体であり、私たちが妙法を聴聞し受持して得るところの功徳は、同時に父母の功徳となって共に成仏境界に至ることができるのです。
 なお、『兄弟抄』には、
 「一切はに随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随ばぬが孝養の本にて候か」(同 九八三)
と、世間では親に従うことが孝養とされているが、親の言うことであっても正法の信仰を妨げることには従わないことが、かえって孝養となると仰せられています。私たちは、両親はもちろんのこと先祖代々の成仏のためにも、御本尊を信じて自身の信行を磨き、即身成仏の大功徳を得ていくことが肝要です。

四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「戒壇の御本尊様を信じ、自行化他の信心に励み、一家和楽を心掛け、まじめに信心に励むことによって、計り知れない大きな功徳を頂き、父母の恩に報いることができるのであります。
 それと同時に、法統相続して強盛な信心に励む時、父母の恩のほか三宝の恩をはじめ、四恩のすべてに報いることになるのであります」(大白法 八六六号)
と御指南されています。
 四恩報謝の上から最も尊い報恩行は正法弘通です。広宣流布大願成就のため、日々、折伏を実践してまいりましょう。

 次回は『衆生身心御書』(平成新編御書 一二一二)の予定です


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