大白法1106号 令和05年8月1日より転載

御書解説266 背景と大意

檀越某御返事

御書1219頁 別名 四条金吾殿御返事



  一、御述作の由来

 本抄は、弘安元(一二七八)年四月十一日、日蓮大聖人様が五十七歳の御時、身延において御認めになった御消息とされています。御真蹟は中山法華経寺(日蓮宗)に蔵されています。
 対告衆は、御真蹟に宛名がなく不明のため、『檀越某御返事』との題号が付されています。
 ただし、内容から、鎌倉に住していた四条金吾に与えられた御書とされており、『四条金吾殿御返事』の別名があります。
 系年については、本抄末尾に「四月十一日」とあるだけで年号が記されていないため、古来、文永九(一二七二)年、建治三 (一二七七)年などの異説がありますが、現在は弘安元年説を採っています。
 本抄は、当時、鎌倉幕府が大聖人様を伊豆配流、佐渡配流に続いて、三度目の配流に処す計画であるとの情報を聞き得た某檀越からの報せに対し、大聖人様が所感とその対応を述べられた返書です。
 大聖人様は、その報せに対して一歩も怯まれることなく、むしろ法華経の行者としての大確信の上から難に立ち向かう不退の覚悟と、さらなる信心決定の歓びを示されています。
 そして、遁世を願い出た某檀越に対して、世間における職務に懸命に勤めることも法華経の信心修行であると諭され、法華経に明かされる世法即仏法の道理を説いて、さらなる精進を促されています。

  二、本抄の大意

 冒頭、某檀越からの急報を受け取り、その趣旨を承知したことを述べられます。
 次に、幕府がこれまで大聖人様を二度にわたって流罪にしたことによって、既に様々な災禍を蒙ったにもかかわらず、三度目の流罪を企てているらしいことを聞き、人が破滅に向かう時には想像もつかないことが起こるが、これもその前兆であろうと述べられます。
 次いで、もし三度目があるならば、幕府が大聖人様の諌言を聞くように見せかけて悪用するよりは百千万億倍も幸甚なことで、実に三度の配流ともなれば法華経(御本尊)も、よもや大聖人様のことを緩慢な行者とは思われないだろう。また釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩の御利生を今度は見尽くすことができるであろう。そう考えるならばぜひとも、幕府の企てが実行されることを願っていると、その御胸中を明かされます。
 そして、法を求めて身を捨てた雪山童子の跡を追い、杖木瓦石の迫害を忍んで法華経を弘通した不軽菩薩の姿を継承することにもなると、重ねて受難の悦びを述べられ、虚しく疫病に侵されたり、老い朽ちて死ぬのであれば、どれほど悔やまれることかと述べられます。
 さらに、ただ願うところは、法華経のために国主に怨まれて迫害に遭い、今生において罪障消滅して生死の苦を離れることであり、また天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の諸天善神が、法華経の行者を守護するとの仏前の誓いを、今度も果たすのか試みたいと述べられます。
 次いで、御自身のことはともかく、信徒それぞれの身のことは諸天善神にお願いしておくので、心配することはない。これまでと同様に職務を果たしていくことこそ、法華経を昼夜十二時にわたって修行することになると仰せられ、最後に、主君に仕えることをもって法華経の修行と思いなさいと、天台大師の『法華玄義』の、
 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(玄会上48)
の文を挙げて教示され、本抄を結ばれます。

 三、拝読のポイント

 諸難に立ち向かう覚悟

 本抄において大聖人様は、末法に法華経を弘めるには難が競い起こることを覚悟し、一切の諸難に立ち向かい、それを乗り越えていく信心が必要不可欠であることを教えられています。
 このことは『四条金吾殿御返事』にも、
 「此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(御書 七七五)
と仰せられ、また『御義口伝』にも、
 「妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」(同 一七六二)
と教示されています。
 そして、『呵責膀法滅罪抄』に、
 「度々かゝる事出来せば無量劫の重罪一生の内に消えなんと謀てたる大術少しも違ふ事なく、かゝる身となれば所願も満足なるべし」(同 七一二)
と、法華経を弘める故にたびたび大難に遭遇するけれども、その難を忍んで折伏に邁進することによって、過去遠々劫の罪障が消滅し、法華経の行者として衆生救済の所願も果たされることを教示されています。
 『開目抄』に、
 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ」(同 五七四)
とあるように、私たちは、大聖人様の忍難弘通の御振る舞いを拝し奉り、いかなる難が競い起きようとも疑いの心を起こすことなく、信心強盛に折伏に勇往邁進することが大切です。

 世法即仏法

 本抄の後段では、
 「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」
と仰せられ、「仕官」つまり世間の仕事に従事することも、法華経の信心修行となることを、世法即仏法の道理の上から教示されています。
 これについて、法華経『法師功徳品第十九』には、
 「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経 四九四)
と説かれており、これを天台大師は『法華玄義』に、
 「一切世間の治生産業、皆実相と相違背せざるか如し」(法華玄義釈籤会本 上−四八)
と釈されています。
 世間一般の政治や経済、倫理や道徳、生活の資けとなる生業や各種産業等の一切の世間の相は、妙法蓮華経の悟りより臨めば、皆ことごとく実相に順ったものと知ることができるということです。
 つまり、妙法蓮華経の悟りに入れば、世間の道理や法則等の一切の相は、法華経で説かれる諸法実相、一念三千の法理の一分であり、世間法はそのまま仏法に通じるのであり、また法華経は世間法の一切を内包した教えということになります。
 故に、御本尊様への信心を根本として、世間の仕事を全うするよう勤めるところに、法華経の信心修行の意義が具わるのです。
 さらに広義に解釈すれば、私たちの行・住・坐・臥における一挙手一投足、言動のすべてが仏法に基づくものであり、日常生活のすべてが仏道修行であるととらえるところに、法華経に明かされる世法即仏法の深い意義が顕われてくるのです。
 大聖人様は『諸経と法華経と難易の事』に、
 「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書 一四六九)
と仰せられ、仏法は根本の本体であり、世間法はその本体より生じる影であることを弁えて、あくまでも根本である仏法を基軸とすべきことを教示されています。
 さらに『観心本尊抄』には、
 「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」(同 六六二)
と仰せられ、天が晴れれば大地の一切が明らかに見えるように、法華経すなわち一閻浮提第一の御本尊様を根本として受持信行に励む者は、世法の一切をその身に得ていくことができると仰せられています。
 私たちは、大御本尊様への絶対信を根本として日々信行に励み、それぞれが成仏の境界を得て、世法即仏法の生き方を確立していくことが大事です。

 四、結び

 御法主日如上人猊下は、難に立ち向かう信心姿勢について、
 「我ら末法の衆生が御本仏大聖人の正しい信心をしていこうとすれば、様々な難や障魔が競い起こることは必定であります。
 しかし、これらの難や障魔に真っ向から対峙し、無疑曰信、剛毅果断なる強盛な信心で乗りきることによって、過去遠々劫からの罪障を消滅し、己れ自身の宿業を転換し、成仏への道を歩むことができるのであります」(大白法 八五六号)
と御指南されています。
 貪瞋痴等の煩悩が盛んになり、人心の荒廃や感染症の流行、自然災害や戦争によって世界中が混迷する今だからこそ、大聖人様の正法を持つ私たちは、仏国土建設と自他共の成仏のため、難を恐れず強盛な信心をもって破邪顕正の折伏に邁進してまいりましょう。

  次回は『兵衛志殿御返事』(平成新編御書 一二二八)の予定です


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