大白法1134号 令和06年10月1日より転載
御書解説276 背景と大意
閻浮提中御書
御書1322頁 別名 師子王御書
一、御述作の由来
本抄は、弘安元(一二七八)年、日蓮大聖人様が御年五十七歳の時、身延において認められた御書です。
御真蹟は、第十一紙から第十七紙までの七紙が総本山大石寺に厳護されています。本抄は前後が欠けており、御述作の日付などは不明です。なお、同じく大石寺所蔵の『五眼御書』(御書一六七四)を含む断簡類を、本抄の一部とする見解があります。
題号については、本抄に引用される涅槃経の経文から名づけられており、本抄の御文から「師子王御書」とも称されます。
対告衆については、大石寺に蔵されていることから駿河・富士方面の檀越と推測され、南条家の縁者や西山殿宛とも考えられています。
二、本抄の大意
先に述べたように前半第十紙まで欠落しています。
まず、この世界に飢餓、戦争、疫病等が起こるという涅槃経如来性品の経文が示され、第三十代欽明天皇(※)の時代に百済国の聖明王から仏教経典が日本に伝えられたが尊崇しなかったため、その後、三代にわたって仏罰を受けることとなった例証を挙げられます。
また、その時に献上されたのは釈尊の仏像のはずだが、善光寺では阿弥陀仏だと詐って釈尊を蔑ろにし、日本国の上下万民を惑わせていると指摘され、これを明らかにする日蓮に憎しみを抱く人々が日蓮を迫害することで、諸天が去り、日本中が悪鬼・魔神に害せられると示されます。
続いて、法華経『譬喩品』や同『普賢菩薩勧発品』から、法華経の行者を迫害する者が病に苦しむ経証を挙げられます。
次に、こうした謗法の中から真言宗の誑惑について述べられます。
第一に、弘法大師によって真言宗東寺の一門が、上は仁和寺の御室(門跡のこと)から下はすべての門家に至るまで法華経を戯論であると軽んじていること。
第二に、比叡山の座主ならびに僧衆、山寺(天台宗山門派)の僧らが、声をそろえて金剛頂経、大日経を尊んでいること。
第三に、智証大師(円珍・天台五世)が「法華経尚及ばず」と説いたことで、園城寺の長吏(役僧)ならびに天台寺門派の僧らも「法華経は真言経に及ばず」と主張していること。この三師の邪義を重んじる国主によって、王法の秩序が尽きたと仰せられ、その例として、天台座主明雲が木曽義仲に殺され、御室の道助法親王(仁和寺八世)が思い死に(思い続けて死ぬ)をしたことを示されます。
次いで、門下に対して師子王の子となって、群狐のような邪義の徒に笑われぬようにと訓誡され、過去遠々劫から日蓮のように身命を賭して強敵の罪科を指摘し破折する師には値い難い、国主の責めは恐ろしいが、命が終わった後の閻魔の責めはそれ以上で、日本国の責めは水のようなもので濡れるのを恐れることはないが、閻魔の責めは裸で地獄の火炎に入るようなものと思え、と述べられます。
続いて、涅槃経の文意は、仏法を信じて生死の苦悩を離れようとする人の心が少し弛むのを見て、修行を奨励するために仏が疫病を与えるのである、と重ねて現世の仏道修行を励まされます。
次いで、日蓮は、凡夫であるから本来は天眼通を持たず一枚の紙さえ見通すことはできないし、宿命通も持たないので三世を知ることもできないが、法華経の行者であるゆえに肉眼ではあるけれども天眼通・宿命通をもって日本国の仏経流布の状況、諸宗の邪正、中国・インドの論師・人師の勝劣、さらに八万巻・十二種の経典の大要を推知し、日本が亡国になることを案じて申し上げてきて、ついに現実に符合したと断言されます。そして、このことはすべて法華経のお力によるものであるのに、国主は臣下たちの讒言に惑わされて日蓮に害をなすばかりである。彼らは凡夫であるから仕方ないと思い、法華経の信心から退くことはなかったが、何度も法難が我が身に及んだと述べられます。
最後に、日蓮は美食〈みじき〉(栄耀栄華)を求めぬ者であるから、権力者に影響されることなく身延に隠棲したが、凡夫の身であるから寒暑に苛まれていること。さらに、爰旌目〈えんせもく〉という人が万里を行くに一度の食事ではなしえず、子思と孔子が百日間でわずか九度の食事では堪えられないようなものであるとの譬えを挙げて食料が乏しいことを示され、そのために読経の声も絶え、観心修行の心も疎かになると困っていたところ、今回、貴殿の訪問・御供養があったのは、教主釈尊のお勧めによるものか、はたまた過去の宿習によって促されたものかとも思い誠に有難く、手紙に書き尽くすことができないと御礼を述べられ、結ばれています。
三、拝読のポイント
「日蓮が一門は」
大聖人様は本抄において、
「願はくは我が弟子等師子王の子となりて群狐に笑はるゝ事なかれ」
と仰せです。師子王とは、百獣の王と称されるライオンのことです。諸仏においては教主釈尊、諸経の中においては最勝の経である法華経に譬えられます。
大聖人様は、身命を賭して三類の強敵を退けられた御自身を師子王と仰せられていますが、これは末法の法華経の行者としての御自覚と、御本仏の境界の一端を示されたものと拝されます。
『聖人御難事』にも、
「各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼ゆるなり」(御書一三九七)
と仰せです。師子がたとえ子供であっても他の動物に臆することがないように、大聖人様の弟子檀那たる私たちも、正法弘通によっていかなる大難が惹起しようと正法を受持する者の師子吼には行く手を阻むすべてのものが退くと確信しましょう。
また、『四菩薩造立抄』には、
「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(同一三七〇)
と御教示です。破邪顕正の実践に励む本宗の僧俗こそ、「師子王の子」たり得るのですから、この御意を我が心として、人々から嘲りを受けるような道理に悖る振る舞いを厳に慎み、懈怠を誡め、自らの使命を自覚して信行に励むことが大切です。
名聞名利に執われない信行
大聖人様は本抄の最後の段に、身延入山と山中の生活について記されています。
文永十一(一二七四)年三月八日、佐渡の大聖人様のもとに幕府からの赦免状が到着し、五日後の十三日に一谷を発たれて同月二十六日に鎌倉に入られ、四月八日、平左衛門尉頼綱をはじめとする幕府要人と対面されました。この時、大聖人様は年内に蒙古が襲来するであろうと断言され、ただちに謗法を捨てて正法に帰依するよう厳しく諌められました。第三国諌に当たる諌暁です。
総本山第四世日道上人の『御伝上代』に、
「大聖は、法光寺禅門、西御門の東郷入道の屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふ」(日蓮正宗聖典七四七)
とあり、度重なる予言的中を恐れた幕府が、大聖人様を懐柔し国家安泰の祈祷をさせようとの、当時の目論見がうかがえます。
大聖人様の望みは名誉栄達ではなく、一切衆生の救済です。『御講聞書』に、
「世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位をたまふ共、夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり」(御書一八四七)
との御教示があるように、大聖人様は幕府の申し出を一蹴され、衣食住の乏しい身延山中において三大秘法の整足を図るとともに、広宣流布の礎を築くための著述や弟子の育成に専念されたのです。
『持妙法華問答抄』の、
「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり」(同二九六)
との御金言を銘記し、自行化他の唱題・折伏を生活の中心に据えましょう。
四、結び
御法主日如上人猊下は、
「『師子王の如くなる心』とは、あらゆる障魔を打ち払い、凛として広布へ向かって力強く前進していく、破邪顕正の信心そのものであります。そして、その源は大御本尊様に対する絶対の信、『無疑曰信』(御書一七六四等)から生ずるのであります」(大白法六九八号)
と御指南されています。
私たちは、大御本尊様を信じ、信行を実践することによって即身成仏の大功徳を得ることができるのですから、何ものをも恐れず、南無妙法蓮華経の師子吼をもって、さらなる折伏弘通に邁進いたしましょう。
※かつては神功皇后を第十五代天皇としていたため欽明天皇を三十代としていたが、明治時代以降は神功皇后を数えず、欽明天皇を第二十九代とする。
次回は『秀句十勝抄』(平成新編御書 一三二四)の予定です