大白法1158号 令和07年10月01日より転載

御書解説282 背景と大意

窪尼御前御返事

御書1367頁 別名 報持妙尼書



 一、御述作の由来

 本抄は、弘安二(一二七九)年五月四日、日蓮大聖人様が御年五十八歳の時、身延において認められ、窪尼に与えられた御消息です。
 御真蹟は断簡三行のみ、山梨県の妙了寺(日蓮宗)に現存し、総本山大石寺には第二祖日興上人の写本が蔵されています。
 対告衆である窪尼は、駿河国富士郡賀島〈かじま〉(現在の静岡県富士市)に住む檀越、高橋六郎兵衛入道の夫人です。また、駿河国富士郡西山(同富士宮市)に住む河合入道の娘であり、日興上人の叔母にあたります。
 窪尼は、建治元(一二七五)年七月頃、夫・高橋入道の病気平癒のために髪を剃って尼となり、「妙心尼」「持妙尼」と称され、夫の死後は出生地である西山付近の窪の地に移り住んでいたことから、「窪尼」とも呼ばれました。
 本抄は、窪尼からの御供養に対する返書であり、大聖人様は故事を挙げつつ、窪尼の信心を賞賛されています。
 なお、本抄の系年については、大宮〈おおみや〉造営に関する内容から、建治年間や弘安元年などの異説があります。

 二、本抄の大意

 初めに、窪尼から書付のとおりの御供養の品々が確かに届けられたこと、また多忙な五月の農繁期である上に、大宮を造営する負担などもあって暇のないところ、身延の山中の大聖人様を気遣って御供養された志の深さに対し、謝意を述べられます。
 次に、太陽が照らし出す世界の大部分を統治したインドの阿育王(アショーカ王)の故事を挙げられます。
 すなわち、阿育王が過去世で徳勝という名の五歳の童子であった時、釈迦仏に砂で作った餅を供養し、その功徳によって大王として生まれたことを示されます。
 この徳勝童子の供養は、さほどの志もなく、子供の戯れとしてなされたものでしたが、供養を受けた仏が尊い存在であったゆえに、その因縁によってすばらしい果報を得たのであると教示されます。
 さらに、仏(釈尊)を供養する功徳よりも、窪尼が法華経に御供養された功徳のほうが勝れていることを、星と月、灯火と太陽との対比によって示されます。
 加えて、御供養の志も徳勝童子よりも勝れているゆえに、その功徳により、夫の高橋入道も成仏するであろうと述べられます。
 また、窪尼の一人娘の姫御前も延命・多幸となり、さすがは立派な人の娘と世の評判になるであろうし、まだ幼いながら、母に孝養を尽くすほどの娘であるから、亡き父の菩提を弔う人になるであろうと仰せられます。
 続けて、中国の西施〈せいし〉という女性が老母を養っていたところ、天が哀れみ、越王という大王の后となることができたという故事の例を挙げられ、窪尼の娘も母に孝養を尽くしていることから、天からも護られ、仏も哀れまれるであろうと説かれます。
 最後に、一切の善根のなかで父母への孝養が第一であり、まして法華経の信仰によって最高の孝養を尽くしていることは、めでたい限りであると述べられて、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 御供養の精神

 本抄では、阿育王(徳勝童子)の故事を挙げて、御供養の精神を説示されています。
 御供養とは、仏法僧の三宝を尊崇して、信仰の志を捧げることをいいます。大聖人様は御供養について『衆生身心御書』に、
 「設ひこうをいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろかにすこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや」(御書一二一七)
と仰せです。
 すなわち、どれだけ多大な志があろうとも、真実ではないものに供養すれば大きな悪業となり、反対にわずかな志であろうとも、真実の人に御供養すれば大きな善根を積むことになるのです。ましてや深厚なる志をもって、真実の仏法に御供養する人の功徳は計り知れません。
 ゆえに本抄では、徳勝童子の故事を通して、御供養はお金や品物の多寡ではなく、そこに込められた真心が重要であり、何よりも、何に対して御供養することが大切であるかを教えられているのです。
 その上で窪尼に対し、釈尊よりも法華経への御供養の功徳のほうが勝るとの対比をもって、末法の衆生が真に御供養申し上げるべき対象が何かを教えられています。
 それは大聖人様が顕わされた御本尊様の讃文に「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」(御本尊様に御供養する福徳は、十種の尊称を具備する釈尊を供養する功徳に勝るという意)と認められているように、末法の法華経の行者・大聖人様の御当体である南無妙法蓮華経の御本尊様に他なりません。
 私たちが下種三宝を外護するために御本尊様に財物をお供えする「財の供養」、寺院の清掃や諸行事に参加し身をもってご奉公する「身の供養」、大聖人様の仏法を弘め教えるために折伏・育成に励む「法の供養」なども、御本尊様への尊い御供養です。言い換えれば、ひたむきに精進する仏道修行のすべてが御本尊様への御供養であり、その一つひとつに対し、報恩感謝の真心を込めて喜んで行うことで、確かなる大功徳を積んでいくことができるのです。

 父母への孝養

 本抄では、すべての善根(善を生ずるもと)のなかにおいて、「父母への孝養が第一である」と御教示です。つまり、父母に孝養を尽くす人は、必ず最善の果報を得ることができるのです。その孝養には、親に孝行を尽くすこと、あるいは亡くなった親の菩提を心から弔うことの両意があります。
 大聖人様は、
 「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(開目抄・同五三〇)
と、仏教徒は必ず四恩を報ずべきであると説かれ、四恩のなかでも「父母の恩」を一番目に挙げられています。
 私たちにとって父母は一番身近な存在であり、父母がいなければ、この世に存在すらしていません。その父母に対して、常に感謝の念を持ち、孝養を尽くすことが大切です。
 世間には、「子どもは親を選べない」「どのような環境に生まれるかは運任せ」などと考える風潮があります。その原因は、仏法を理解せず信受できない無知の人が、多く存在するからです。
 仏法では、三世の一切を貫く因縁果報が説かれています。その大原則から見れば、私たちが両親の子として生まれたことは、けっして運や偶然でなく、すべて必然であり、今世に家族となったことには、深い因縁が存するのです。
 末法濁悪の現代社会では、家族関係の深刻な問題で懊悩〈おうのう〉(心の底から深く悩み苦しむこと)する人が少なくありません。このような世の中を正す道は、唯一の正法である大聖人様の仏法が流布して、正しい人間としての生き方が広く世に行われることです。
 すなわち、親は子に慈悲をもって正しい信心を教え、子は親に正法の功徳をもって孝養を尽くすところに、家内安全・一家和楽が確立するのです。

 四、結び

 御法主日如上人猊下は、
 「なぜお釈迦様を供養するより、末法の法華経の行者である日蓮大聖人様を供養する功徳のほうが勝れているか、それは大聖人様が久遠元初の仏様すなわち末法の御本仏であられるからなのです。今日、我々が大聖人様に供養し奉る信行を立てることこそ、一番尊いことになるのであります」(大白法七三〇号)
と御指南です。
 窪尼は、折にふれて大聖人様に真心からの御供養を捧げ、外護の任を果たされました。その功徳により、亡夫の成仏はもとより、親に孝養を尽くす子に恵まれるという果報を得たのです。
 幸いにも私たちは、久遠元初即末法の御本仏・日蓮大聖人様の仏法に巡り合うことができました。その喜びを胸に、日々の信心修行に邁進する功徳は、窪尼と同じように、自身の成仏だけでなく、ひいては子々孫々にわたる幸福へと繋がっていくのです。
 本年も残り三ヵ月、御本尊様との大事なお約束である折伏誓願をなんとしても達成するため、全支部が一丸となり、喜び勇んで突き進んでまいりましょう。

  次回は『四菩薩造立抄』(平成新編御書一三六八)の予定です


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