仏教用語の解説(7)大白法0983 平成30年06月16号
  娑婆即寂光


 娑婆即寂光とは、私たちが住む苦悩に満ちたこの娑婆世界が、実は仏の住まわれる常寂光土であることを示す言葉です。

 娑婆世界

 娑婆とは、梵語「サハー」の音写で「忍」や「堪忍」を意味します。この世界の衆生には様々な煩悩があり、悪業を積んでいて苦しみから逃れることができないために、常に堪え忍ばなければならず、また諸菩薩が衆生を救済するため、苦難を堪え忍んで教化するので、娑婆世界と言います。

 四種の浄土(四土)

 天台大師は浄土に四種(四土)あることを説いています。
一、凡聖同居土。凡夫と声聞・縁覚などの聖者が共に住する国土。これに同居穢土と同居浄土があり、不浄充満の娑婆世界は同居穢土となります。
二、方便有余土。見惑・思惑といった煩悩を断じた声聞・縁覚が居住する国土。
三、実報無障礙土。見惑・思惑・塵沙惑を断じ、根本の無明惑を分々に断じた菩薩が居住する国土。
四、常寂光土。永遠の悟りを得て、法身・般若・解脱の三徳を具えた 諸仏如来が居住する国土。
 『普賢経』に、
 「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名づく」(法華経 642)
とあり、法華経の真意を説く釈尊の本地は自受用身であり、その住処は常寂光土であると説かれています。

 娑婆世界こそ常住の浄土

 釈尊は『寿量品』において、久遠五百塵点劫の本地を開顕した後、自らの住処について、
 「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(同 431)
と、自らは久遠已来常に娑婆世界にあって衆生を教化してきたと説かれました。穢土〔*1〕と思われていた娑婆世界が、実は仏の常住する寂光土であることが明かされたのです。
 四土の別が生じた理由について天台大師は、
 「諸土の別異は、像の如く飯の如し。業力に隔てられて感見不同なり」(法華玄義釈籤会本 下−232)
と、鏡や器が同じであっても、鏡に映る像や器の上の飯が異なれば全く異なった見え方をするのと同じように、衆生の境界が違えば、その業と果報とによって国土の見え方が異なり、四土の差別を生じる、と示しました。
 大聖人は『観心本尊抄』に、
 「今本時の娑婆世界は三災を離れ 四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。此即ち己心の三千具足、三種の世間なり」(御書 654)
と説かれ、娑婆世界とは、災難を離れた常住不滅の浄土であり、仏も衆生も共々に、三世永遠の生命を得て常住する国土であることを仰せです。すなわち、一念三千が娑婆世界を寂光土とするための原理であり、衆生の命が仏界に至れば、自ずとその国土が寂光土になるということなのです。

 一心欲見仏 不自惜身命

 『寿量品』の自我偈(法華経 441)には、寂光土について、種々の珍宝や宝樹により荘厳された安穏なる国土で、天人が天鼓を打ち鳴らし、曼陀羅華を降らし、衆生が遊楽している所であると説かれています。
 そしてさらに、そのような寂光土に、いつでも行くことができると説かれています。すなわち、
「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」(法華経 439)
と、衆生の心が素直で柔軟になり、身命を惜しまず仏を渇仰恋慕するならば、その時直ちに霊山浄土〔*2〕が現われ、そこで常住説法されている仏に会うことができると説かれているのです。

 大聖人の住処即寂光土

 大聖人は『四条金吾殿御消息』に、
 「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書 478)
と仰せられ、法華経のために頚を切られようとした竜の口こそ、大聖人自らが法華経のために命を捧げた場所であり、寂光土であると仰せです。すなわち大聖人は「一心欲見仏 不自惜身命」の振る舞いによって自らを末法出現の御本仏と発迹顕本され、この娑婆世界が寂光土であるという実義を示されたのです。
 また『南条殿御返事』には、
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(中略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(同 1569)
と、一大事の秘法たる大御本尊を胸に収める自らの住処が霊山浄土であるとも仰せです。つまり、大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわしますところこそが寂光土であり、霊山浄土なのです。

 私たちの住処を寂光土へ

 私たち日蓮正宗の僧俗は、総本山大石寺を大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊おわします寂光土と拝し、折々に登山参詣することが肝要です。
 また『御義口伝』に、
 「霊鷲山とは寂光土なり。(中略)霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云」(同 1770)
との御指南から、日蓮正宗の寺院や信徒宅には御法主上人猊下が御書写された御本尊が在し、その御本尊に対する信行が、直ちに本門戒壇の大御本尊に通じるところから、その道場が即寂光土となるのです。
 さらに、私たちが大聖人の御金言と御法主上人猊下の御指南を体し、身命を惜しまず折伏弘通に励むところ、やはり寂光土であるということができます。
 本宗僧俗が広宣流布をめざして精進していくところに、娑婆即寂光の意義が成就するのです。

*1穢土
 浄土の対義語。不浄なるものが充満した穢れた国土。迷い苦しみから抜けられない衆生が住む。
*2霊山浄土
 霊山とは、釈尊が法華経を説かれたインドの霊鷲山を指すが、特に『寿量品』の会座として御本仏が常住して説法される荘厳された浄土を、仏国土、寂光土とされることから霊山浄土と言う。

 次回は、「極楽往生」について掲載の予定です


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