仏教用語の解説(10)大白法0991 平成30年10月16号
  善知識・悪知識


 善知識・悪知識とは

 「知識」とは一般的に「知ること」「理解すること」、あるいはその内容を言いますが、仏教では、「友人」・「知人」を意味します。したがって善知識とは、自分を正しく導いてくれる徳のある友人の意に当たり、善友や親友とも称されます。その反対に悪知識とは、悪法を説いて人々を不幸に陥れる悪友のことを指します。
 世間のことわざに、「朱に交われば赤くなる」と言われますが、仏道修行に励む私たちにとっても、身近な知人から受ける影響は多大であり、善につけ悪につけ信仰の在り方を左右します。
 日蓮大聖人は『立正安国論』に、
 「蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る」(御書 248)
と仰せられています。すなわち、高貴な蘭の香りのする部屋に入れば自ずと自分にもその香りが移り、また、単体では曲かって生長する蓬も、麻と一緒に植えれば真っ直ぐ伸びます。
 これと同じように私たちの信心修行も、時に辛いことがあったり、また魔が心に入り込んで信心が停滞したとしても、善知識に接することで自然に感化され、誤った信心の姿勢を正していくことができます。
 反対に、人を不幸に陥れる悪知識との縁が深くなれば、信仰の退転に繋がってしまう場合があります。
 悪知識の恐ろしさについて大聖人は、『涅槃経疏』を引かれて次のように教示されています。
 「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚癡の人の心を取って善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり」(同 224)
 すなわち、悪知識とは「謗法・闡提のもの」と示される如く、仏の正法を誹謗して誤った教えを説く者です。言葉巧みに修行者の心の隙に入り込み、ついにはその人の善良な信心を破ってしまうために、十悪や五逆罪を犯す者よりも恐ろしい存在であると説かれているのです。

 浄蔵・浄眼の故事

 善知識の助けによって正法に帰依して成仏を遂げることができた例として、法華経『妙荘厳王品』(法華経583)には、妙荘厳王とその息子である浄蔵・浄眼という二人の王子の故事が説かれています。
 父・妙荘厳王は初め外道の教えにとらわれていました。また二人の王子は、菩薩行を修して種々の三昧に通達していましたが、時に雲雷音宿王華智仏による法華経の説法を聴聞し、さらに母・浄徳夫人からの言いつけもあり、父王を正法へと導くことを決意して、種々の神通力を現じました。それを見た父王は大いに歓喜して、ついには沙羅樹王仏いう仏の記別が与えられました。
 経文には、
 「此の二子は、是れ我が善知識なり。(中略)善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。
 大王当に知るべし。善知識は是れ大因縁なり。所謂化導して、仏を見ることを得、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さしむ」(法華経 592)
と、この二人の息子は父王にとっての善知識であると説かれており、善知識が仏道増進にとっての大きな助けであり、ついには成仏の境界へと導いてくれる存在であることが示されています。

 四種の善知識

 天台大師は『法華文句』(法華文句記会本下ー576)に、先の『妙荘厳王品』の経文を釈して、具体的に四種類の善知識を示しています。
@外護の善知識=「能く仏事を作し」……修行者を援助し、仏法の弘通を援護する人
A教授の善知識=「示教利喜」……仏法の教えを説き示してくれる人
B同行の善知識=「化導して、仏を見ることを得」……共に修行に励んでくれる人
C実際実相の善知識=「菩提に入らしむ」……実際に成仏の功徳を与えてくれる大法(仏)
 これらを私たちの身近な状況に当てはめるならば、共に信仰に励む法華講員や、所属寺院の指導教師の存在こそ、同行・教授の善知識であるととらえることができます。
 また、実際実相の善知識については『御講聞書』に、
 「所詮実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御書 1837)
と教示されています。すなわち、実際実相の知識とは法華経寿量品文底の南無妙法蓮華経を指します。
 御法主日如上人猊下は、
 「善知識とは、一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善知識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性をし発し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。
 したがってまた、今時に約して申せば、人法一箇の大御本尊様を指すのであります」(大白法 810号)
と御指南されており、最高の善知識たる本門戒壇の大御本尊への絶対的な信心によって、私たちは成仏を遂げることができるのです。

 悪知識を恐れず折伏を行じる

 私たちの仏道修行にとって、信心を破る悪知識の影響を恐れるのは大切なことです。ただし、その一方で、悪知識の存在がかえって信心の大きな糧となる場合もあります。
 大聖人は『種々御振舞御書』に、
 「今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。(中略)相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。(中略)釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり」(御書 1062)
と仰せられています。
 大聖人は法華経に予証される数々の難を忍ぶことにより、自らが末法出現の法華経の行者、末法の御本仏であると証明されました。
 裏を返せば大聖人は相模守(北条時宗)や平頼綱等の迫害者の存在によって法華経の行者たり得たのであり、「相模守殿こそ善知識よ」と仰せられるように仏法迫害の悪知識が、大聖人にとっては、かえって善知識となっていたのです。
 私たちも、悪知識に惑わされない堅固な信心を持つのはもちろんですが、「艱難汝を玉にす」との格言の如く、悪知識から受ける様々な逆境をも力に変えて、積極的にそれらの謗法に染まった知人・友人を折伏していくことが肝要です。


  次回は、「九横の大難」につ いて掲載の予定です


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