仏教用語の解説(14)大白法0999 平成31年02月16号
  五一の相対



 五一の相対とは、日蓮大聖人の本弟子六人(入門した順に日昭・日朗・日興上人・日向・日頂・日持)の中で、大聖人の血脈を承継された日興上人と、他の五人との間に見られる教義上の相違のことです。

日興上人への血脈相承と六老僧の選定

 大聖人は、令法久住のため、数多の弟子の中から一人日興上人を選び、弘安五(一二八二)年九月に『日蓮一期弘法付嘱書』(身延山における御相承なので身延相承と言う)を、また御入滅の当日の十月十三日に『身延山付嘱書』(入滅の地、池上における御相承なので池上相承と言う)を授け、唯授一人の血脈相承をあそばされました。
 大聖人からの血脈を承継された日興上人は、本門弘通の大導師・末法の僧宝として、御本仏日蓮大聖人の仏法を余すところなく受け継がれ、大聖人の正当な後継者として身延山久遠寺の別当(住職)になられたのです。
 加えて大聖人は入滅に先立つ十月八日、門下の中で、中心的な役割を果たすべき者として本弟子六人(六老僧)を定められました。
 身延山における大聖人の百箇日忌法要の際、大聖人の御遺言に従い、六老僧の日昭・日朗・日興上人・日持の立ち会いのもと(日向・日頂は他行で不在)、門下の代表十八人が身延の大聖人の墓所を輪番で守護することが定められました。

 身延離山と大石寺開創

 しかし、日興上人以外の五老僧は、日興上人が血脈正当の後継者になられたことに不満を懐いて登山せず、墓所の守護は自ずと日興上人とその門弟によって行われるようになりました。
 弘安八(一二八五)年春頃、五老僧の一人・民部日向が身延に登山し、日興上人はこれを迎え入れますが、日向は日興上人の厳正な信仰に随順せず、次第に謗法の姿勢が露わになってきました。
 また、身延の地頭・波木井実長も、日向や他の五老僧の誑惑により、仏像造立・神社参詣、また謗法への布施をするなど、大聖人の精神を踏みにじる言動をするに至りました。
 こうした状況から日興上人は、もはや身延は大聖人の御魂魄の住まわれる場所ではないと判断され、正応二(一二八九)年春、本門戒壇の大御本尊をはじめ、大聖人の御霊骨、重宝を捧持し、弟子方と共に身延を離れられました。そして、翌正応三年には、南条時光殿が治める富士上野の地に大石寺を創建されたのです。
 日興上人の御著述である『富士一跡門徒存知事』の冒頭には、日興上人と五老僧との根本的な対立について記されています。
 「五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍って公所に捧ぐる状に云はく、天台沙門云云。又云 はく、先師日蓮聖人天台の余流を汲む云云(中略)日興が云はく、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり、此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依って、五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」(御書 1867)
これは、五老僧が大聖人を一介の天台僧であると見て、五老僧自身が大聖人の門弟を名乗らず、天台宗と称していたことを破折されたものです。
 これに対し、日興上人は天台大師・伝教大師の法華経は迹門、御本仏日蓮大聖人の法華経は本門であり、両者は断じて混同することが許されないものであると指摘されています。
 日興上人が主要御書として選定された御書十大部には、末法適時の本尊が仏像ではなく法華経の題目であることや、大聖人が釈尊より大事な法華経の行者であることなど、末法の下種仏法における重要な筋目が示されています。
 そして何より、日興上人は大聖人御入滅後も、大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、生前同様の常随給仕を果たされるのです。
 こうした筋目の判らない五老僧は、あくまで釈尊を本仏ととらえ、大聖人の仏法を軽んずる傾向にありました。
 具体的な相対事項については、『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』に、次のようなことが挙げられています。(太字部分か日興上人の正義)
@大聖人を末法の本仏と立て、申状に「日蓮聖人の弟子」と称された。
 五老僧は大聖人の仏法が、法華経をもととする天台宗を踏襲したものとみなし、各々申状に「天台沙門(沙門とは修行者のこと)」と記しました。
A『立正安国論』の精神に基づき、神社参詣は謗法であると主張された。
 五老僧は謗法厳誡の精神を忘れ、伊勢神宮や二所(伊豆山権現と箱根権現)・熊野権現などの神社に参詣しました。
B漢字・仮名文字を問わず大聖人の御書すべてを尊重された。
 五老僧は仮名文字の御書を蔑み、漉き返し(使った紙を溶かしてから再び紙にすること)にしたり焼却したりしました。
C一部読誦(法華経一部二十八品を読誦すること)といった正法・像法時代の修行を戒め、題目を末法の正行とされた。
 五老僧は一部読誦の他、写経などの像法時代の修行に耽りました。末法において、折伏を忘れてこうした修行に専念することに利益はありません。
D大聖人自筆の大漫荼羅を本尊とされた。
 五老僧は釈尊の仏像を造立し、本尊と崇めました。
E大聖人の仏法による、法華本門の大戒を用いられた。
 五老僧は法華迹門の戒である比叡山の戒壇で受戒しました。しかし、天台大師や伝教大師の説いた法華経は像法時代に弘まるべき教えで、末法には全く無意味なものです。
F謗法と化した身延には大聖人の御魂は住まないと主張された。
 五老僧は身延離山後の日興上人が身延に参詣しないことを批難しました。しかし仏法においては、その場所よりも、法の清濁が重要です。日興上人は、かねて大聖人から、
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(日蓮正宗聖典 555)
との御言葉を賜っており、身延不参は大聖人の御遺言であると言えます。
G富士は閻浮第一の最勝の地であり、大聖人の本願の所であるとされた。
 五老僧は富士山を辺鄙の地であると批難しました。

 七百五十年の清流を正しく後世へ

 以上が主な相対事項ですが、これ以外にも細かな部分で、様々な相違点があったことは、容易に想像ができます。こうした五老僧の振る舞いは、大聖人を御本仏と拝せず、唯授一人・血脈付法の日興上人に随順することができなかったことに起因するもので、大聖人が厳しく誡められた「非法の衆」に他なりません。
 現在、日蓮宗をはじめとして、大聖人を宗祖・開祖と仰ぐ宗派は数多く存在しています。しかしそれらと日蓮正宗とを比較すると、本尊や勤行の方式などに、多くの違いがあります。これらのほとんどは五老僧の末流であり、日蓮宗の化儀・化法の混乱のもとは、すべて五一の相対、大聖人の血脈に対する五老僧の背反に起因するのです。
 この五老僧の誤りから、信仰の筋目を質し、どこまでも正師について信仰しなければならないこと、そして、謗法に苦しむ人々を救えるのは日蓮正宗を信じる私たちにしかできないことを銘記すべきです。

 次回は、「六種の釈尊」について掲載の予定です



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