仏教用語の解説(18)大白法1007 令和01年06月16号
  不軽菩薩


 不軽菩薩は、釈尊の過去世における本門の修行の姿として法華経『常不軽菩薩品第二十』に説かれる菩薩で、常不軽菩薩とも呼びます。

 不軽菩薩の但行礼拝

 『常不軽菩薩品』の概要を述べると、威音王仏の滅後の像法時代、増上慢の比丘が充満していました。そこに一人の菩薩が現われました。そして、すべての比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆(男女の僧俗)に対し、
 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経 500)との言葉を述べ、ただ礼拝を行じ讃歎して歩き(但行礼拝)ました。
 勝手に自分は悟ったと思い込んでいる出家僧や男女の在家修行者たち(増上慢の四衆)は、みすぼらしい不軽菩薩から成仏を保証されたり、礼拝されたことに対して、かえって強い瞋りの心を起こし、悪口を言って罵り(悪口罵詈)、あるいは杖で打ったり石を投げて迫害(杖木瓦石)しました。
 この菩薩は、それらを避けながらもなお、この言葉を説いて礼拝を続けたので、増上慢の四衆はこの菩薩を「常不軽」と名づけたのです。
 このようにして不軽菩薩は生涯、礼拝行を続け、いよいよ寿命が尽きようとした時、虚空において威音王仏の法華経の説法を聞いて、その一切を受持し眼耳鼻舌身意の六根が清浄になる果報を得ました。この功徳により、さらに二百万億那由他歳という長寿を得て、広く人々のために法華経を説き、多くの衆生を利益したのです。
 さらに不軽菩薩はその後、日月灯明仏という同じ名を持つ二千億の仏と、雲自在灯王という同じ名の二千億の仏に値い、さらに無数の諸仏を供養し讃歎して、法華経を説くことで過去遠々劫からの罪障が消滅し、成仏することができました。
 不軽菩薩が六根清浄となり大神通力等の種々の利益と功徳を得るという現証を見た増上慢の四衆は、不軽菩薩の説法を聞いて改心し、皆、信伏随従しました。
 とはいえ、不軽菩薩に対し悪口罵詈し、杖木瓦石を加えた謗法の罪報は消え難く、千劫もの長い間、無間地獄に堕ち、その上、二百億劫の間、仏に値うことも、法を聞くことも、僧を見ることもできない、という大苦悩を受けたのです。
 その後、これらの四衆は謗法の罪が消えて再び不軽菩薩の教化に浴することになりますが、その時の不軽菩薩とは今の釈尊であり、四衆とは、法華経の会座に列なった不退転の衆であると説かれます。
 以上が法華経『常不軽菩薩品』の概略です。
 不軽菩薩が礼拝の際に説いた言葉は、経文の文字数で二十四文字あり、「二十四字の法華経」「二十四字の法体」と呼ばれています。

 本已有善と本未有善

 天台大師は『法華文句』に、
 「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本下 452)
と説かれています。つまり、仏の化導方法として、過去世に仏種を植えられた本已有善の衆生に対しては、釈尊が直ちに法華経を説かずに小乗を説いたように、様々な方便を説いて衆生の過去世の仏種を守り、誘引化導されます。
 しかし、過去世に下種を受けていない本未有善の機根に対しては、法華経による下種がなければ、将来に亘って永遠に成仏することができません。故に、たとえ逆縁となり一度は悪業を積むことになったとしても、敢えて法華経を説いて下種するということです。

 不軽の跡を継ぐ

 大聖人は『曽谷入道殿許御書』に、
 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実 の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(御書 778)
と、末法は、本已有善の「権実の二機」〔*1〕がことごとく尽き、本未有善の機根のみの時代となることから、不軽菩薩のように、但行礼拝によって毒鼓の縁〔*2〕を結ぶべき時であると仰せられています。
 つまり、末法濁悪の今の世は、不軽菩薩のように順縁・逆縁〔*3〕を問わず折伏を行ずる時であるということです。
 また日蓮大聖人は、命に及ぶほどの大きな迫害の中で折伏弘通された御自身を、
 「日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(同 748)
と仰せです。

 二十四字と妙法の五字

 このように、不軽菩薩の振る舞いは、本未有善の衆生に妙法蓮華経を下種結縁なされた大聖人の折伏行と同じ意義であると拝せます。
 しかし一方で『御義口伝』には、二十四字の法華経は、略して経意を弘めたものであると仰せであり、大聖人が弘通される法華経の肝心たる妙法蓮華経とは雲泥の差があると示されています。
 したがって『御義口伝』には、
 「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者を軽賤せん事彼に過ぎたり。彼は千劫、此は至無数劫なり」(同 1779)
と、不軽菩薩を謗るより、大聖人を謗る罪が遥かに大きいことを御教示です。
 『法華初心成仏抄』には、
 「末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり」(同 1315)
と、また『聖愚問答抄』には、
 「只折伏を行じて力あらは威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同 403)
と仰せで、現代の末法濁悪の世にあっては、法門をもって邪義を糾し、大聖人が弘められた妙法蓮華経の五字を一切衆生に受持せしめていくというのが、大聖人の御意に適った修行となります。
 それを心得た上で、不軽菩薩のように順逆を問わず折伏に励んでいくことで、大きな功徳を積むことができるのです。
 大聖人の教えを信奉する私たち日蓮正宗僧俗には、広宣流布の実現という重大な使命があります。不軽菩薩の振る舞いを通して折伏逆化の精神を学び、怯まず正法を説いていくことが大切です。


*1権実の二機
 権機と実機を並べて呼ぶことで、権機とは方便権教を施されるべき熟益の機根、実機とは、実教によって仏種が調養され得脱(脱益)を受けるべき機根。共に本已有善の機根のこと。
*2毒鼓の縁
 『涅槃経』に説かれる、毒を塗った太鼓を打てば、その音を聞こうとしない者もすべて死に至らしめるという説話。毒薬とは、甘露の如き大乗経典も仏性を信じない者にとっては毒薬になるということ。
*3順縁・逆縁(順逆二縁)
 順縁とは素直に仏を信じて仏縁を結ぶこと。逆縁とは正法を聞いて、それを謗るなどの破法・謗法をすることにより仏縁を結ぶこと。

 次回は、「爾前迹門の謗法」について掲載の予定です


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