仏教用語の解説(20)大白法1013 令和01年09月16号
  捨閉閣抛
   ー浄土宗の教義ー


 「捨閉閣抛」とは、日本浄土宗の開祖・法然(1133〜1212年)が“称名念仏”以外の修行を否定し、“専修念仏”を立てるのに用いた言葉です。法然は自著である『選択本願念仏集(選択集)』の中で、中国浄土教の曇鸞・道綽・善導といった人師の説をもとに、念仏以外の教えに対し、捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと主張しました。日蓮大聖人は、こうした法華経誹謗の法然の邪義を「捨閉閣抛」と呼ばれています。

 浄土宗の概要

 浄土教の信仰は、阿弥陀仏を本尊とし、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』(浄土三部経)を拠り所としています。
 念仏の思想は七世紀後半頃、日本に伝えられたとされ、比叡山や南都(奈良)を中心に弘まっていきました。しかし一宗一派としての形はなく、僧侶たちは自らの宗旨とは別に、念仏を信仰していました。
 こうした中で、専修念仏を主張したのが法然です。法然の主張は、称名念仏以外のあらゆる教えを否定する極端なものでした。
 法然は六十六歳のとき、日本浄土宗の根本聖典とも言われる『選択集』を著しました。

 捨閉閣抛の典拠

 まず「捨」について『選択集』には、
 「いよいよ須く雑を捨てて専を修すべし」(大正蔵83巻4b・諸宗部22-39)
とあります。
 これは、善導の『観無量寿経疏』をもとにした説です。
 善導は、浄土三部経の読誦と、念仏修行のみを行うのを正行、それ以外の一切を雑行に分類し、雑行は正行に遥かに及ばないと主張しました。法然が「雑を捨て」ろというのはこの意味です。
 次に「閉」について『選択集』には、
 「随他の前には暫く定散の門を 開くと雖も、随自の後には還って定散の門を閉づ。一度開いて以後、長く閉じざるは唯これ念仏の一門なり」(同17a・92)
とあります。
 これも、『観無量寿経疏』をもとにした説です。善導は、釈尊が定善(妄念をおさえて実践する善)や散善(散心に行う善)を説いたのは随他意の仮りの教えであるとし、
「自余の衆行も是れ善と名づくと雖も、若し念仏に比すれば、全く比校にあらず」(大正蔵37-268a・経疏部11-455/大正蔵83-9b・諸宗部22-59)
と述べ、定善・散善を含む念仏以外のあらゆる修行は、念仏と比較にならない劣った修行であり、念仏こそが阿弥陀仏の本願に適う勝れた修行であると主張しました。法然はこれを受けて、念仏以外の定善・散善などの修行は、閉じろと言うのです。
 次に「閣抛」について『選択集』には、
 「速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし」(83-18c・諸宗部22-101)
とあります。
 この中の聖道門・浄土門とは道綽の『安楽集』にある判釈で、道綽は念仏以外の教えによってこの世で悟りを開くのを聖道門、極楽浄土に往生し悟りを開くのを浄土門に分類し、
 「聖道の一種は今時に証し難し(中略)当今は末法、現に是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」(47-13c・諸宗部5-197)
と述べ、末法は念仏以外の聖道門では悟りを開くことができないので、浄土門である念仏修行により、極楽往生をめざすべき時であると主張しました。
 法然が「聖道門を閣け」と述べるのは、この道綽の説によるものです。
 そして、法然は雑行を抛ち、正行の中でも称名正行、すなわち念仏を専らにするよう主張します。
 善導の説には、他にも『往生礼讃偈』(同47巻439b・439c)で、正行の者は十人が十人、百人が百人極楽往生できるが(十即十生百即百生)、それ以外の雑行では、千人の中に一人も往生できる者はいない(千中無一)とあり、法然はこれらも専修念仏の根拠としています。

 依法不依人

 先に述べたように、法然の捨閉閣抛の邪義は、すべて中国の人師や法然自身の説によるものです。つまり、法然の捨閉閣抛の邪義は、仏説をもとにしたものではなく、いずれも人師の自分勝手な解釈や主張がもとになっています。
 大聖人は『聖愚問答抄』に、
 「涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩 法門を説き給ふとも、経文を手に把らずば用ゐざれとなり」(御書 389)
と教示されています。
 すなわち釈尊が「法に依って人に依らざれ」(大正蔵12-401b・涅槃部1-142)と誡められているように、たとえ普賢菩薩・文殊師利菩薩のような大菩薩の言葉であっても、仏説たる経文に根拠がなければ用いてはならないのであり、曇鸞・道綽・善導・法然などの一介の人師の説であれば、なおのことです。

 正直捨方便の法華経

 『無量義経』には、
 「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 23)
とあり、法華経以前の教えはすべて方便であることが明かされました。
 さらに法華経『方便品第二』には、
 「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(同 124)
と、法華経こそが方便のない真実最勝の教えであると説かれています。
 また同品には、
 「若し法を聞くこと有らん者は一りとして成仏せずということ無けん」(同 118)
と、法華経を聞くすべての者は必ず成仏を遂げるとも説かれています。
 そして、法華経を誹謗する罪については『譬喩品第三』に、
 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば則ち一切 世間の仏種を断ぜん」(同 175)
と説かれています。つまり、念仏に執着して法華経を捨閉閣抛するなどというのは、まさに仏種を断じて無間地獄に堕ちるほどの罪業を積むことになるのです。

 末法の衆生が受持すべき法

 『上野殿御返事』に、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219)
と仰せの如く、我々末法の衆生が受持すべき法は、ただ南無妙法蓮華経であり、念仏ではけっして成仏することはできないのです。
 『立正安国論』には、大聖人御在世当時の日本の荒廃を、
 「是偏に法然の選択に依るなり」 (同 241)
とされた上で、
 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同)
と、法然の邪義を一凶とまで言われています。我々末法の衆生は、捨閉閣抛をはじめとする諸宗の邪義を折伏していかなければならないのです。




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