仏教用語の解説(21)大白法1017 令和01年11月16号
  煩悩即菩提


 煩悩即菩提とは、私たち凡夫の生命に具わる、迷いの心である煩悩と、仏の悟りである菩提が、実は相反するものではなく、一体であることを意味します。
 苦しみ、生死を繰り返す迷いの境界が、そのまま涅槃(悟り)であるという、生死即涅槃と同義に用いられます。
 仏教では、煩悩を断じて悟りを得ると説きます。その修行の方法も諸経に様々に説かれており、八万四千と言われる膨大な仏教の法門はすべて、煩悩を断じるためのものとも言われます。

 仏性を覆う煩悩

 馬鳴菩薩の『大乗起信論』には、次のようにあります。
 「真如は本より一なれども無量無辺の無明あり(中略)一切の煩悩が無明に依って起こされ、前後に無量に差別す」(大正蔵32巻578b・論集5-17)
真如とは普遍的な真理、本質的な真実という意味です。
 つまり、本来の衆生の生命には煩悩や菩提といった差別はなく、すべて一体のものであるが、そこには迷いのもととなる無量無辺の無明があり、無明から一切の煩悩が起こり、衆生を悩ませ苦しめているのであると示されています。
 またこの書には、一切衆生に等しく仏性という宝が具わっていても、磨かなければ仏性を現わすことはない。仏性を覆い隠す無量の煩悩の垢を落とすべく、一切の善行を修すべきである(大正蔵32巻580c・論集5-25)、ともあります。
 このように仏教では、私たち衆生が迷い苦しむもとは煩悩であり、修行によって煩悩を断じていくことで仏性を現わし、悟りに至ることができると説かれるのです。

 煩悩の三惑

 天台大師は衆生の煩悩を見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑に分類しました。
 見思惑とは、見惑と思惑の併称です。
 見惑は、物事の道理に迷う煩悩で、正しい見解に至ることができず、我見にとらわれる迷いのことです。
 思惑は事象に迷う煩悩で、人間が生まれながらに持っている、貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚癡(愚か)などはこれに含まれます。
 塵沙惑は、化導障の惑とも言われ、菩薩が衆生を教化するために払わなければならない、塵や砂の数ほどある煩悩のことです。菩薩が衆生を教化するためには、物心両面のあらゆる事象に通じ、すぐれた智慧が必要になりますが、それを得るためには無数の塵沙惑を滅しなければならないのです。
 無明惑は、見思惑・塵沙惑を断じてもなお、悟りの妨げとして残る、凡夫には到底うかがうことのできない微妙微細な煩悩のことです。
 末法の衆生が自力でこれらの煩悩を払い、悟りを開くことは到底できません。

 爾前の歴劫修行

 『大智度論』(大正蔵25巻86c・釈経1-113)には、菩薩が発心してから仏となるためには「三大阿僧祇劫」という時間がかかると示されています。
 一大阿僧祇とは、『倶舎論』(大正蔵29巻63b・毘曇26上ー171)によれば、十の五十九乗(数字で、一の後にゼロが五十九個続く数)であるとされ、三大阿僧祇はその三倍です。さらに、劫は、計算もできないような長い時間を表わします。
 三大阿僧祇劫とは、一劫の三大阿僧祇倍のことで、凡夫の私たちが想像も及ばないような長い年数、時間のことです。
 爾前経には、菩薩の修行の位に五十二位があるとされ、三大阿僧祇劫という長い時間をかけて、一つひとつの煩悩を滅し、菩薩の位を一つひとつ登り、数え切れないほど生死を繰り返して、ようやく成仏できると説くのです。

 天台の理の一念三千

 法華経の『方便品』には諸法実相が説かれ、天台大師はその法理をもとに、即空・即仮・即中の円融三諦、一念三千を説かれました。
 すなわち、私たち衆生を含む諸法は、空仮中の円融三諦の姿そのものであり、したがって自分の一念の命を深く観察すれば、地獄から仏までのすべての命、三千の諸法が具わっていると教示されています。その法義を一念三千と言い、天台大師は一念三千を悟るための方法として、『摩詞止観』に様々な観念・観法を説いたのです。
 天台大師は、
 「円頓とは、初めより実相を縁す。(中略)初後を言うと雖も二無く別無し。是れを円頓止観と名づく」(摩訶止観弘決会本上ー55)
と、『摩訶止観』の修行によれば、初心の行者でも悟りを開き、成仏することができると示しました。

 日蓮大聖人の事の一念三千・煩悩即菩提

 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」(御書 662)
と、末法の衆生は、天台大師が説いた一念三千の観念・観法を行わなくても、妙法蓮華経の受持、すなわち、御本尊を受持して、御題目を唱えていけば、御本尊の功徳によって自然に一念三千を得て、成仏を遂げることができると御教示されました。
 また、『当体義抄』には、
 「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(同 695)
と、妙法蓮華経の題目には十界・三千の諸法が悉く具わっており、妙法蓮華経を修行すれば、成仏の因と、成仏の果を同時に得て、即身成仏すると示し、また、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同 694)
と、衆生が法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱えれば、迷いの境界である煩悩・業・苦の三道を、仏の悟りの境界である法身・般若・解脱の三徳と開き、即身成仏して当体蓮華の仏になると仰せられました。
 一切衆生が信心修行によって誰でも即身成仏を遂げることができる、大聖人の示されたこの一念三千を、天台の理の一念三千に対して、事の一念三千と言います。
 また、煩悩の身を、時を変えずにそのまま仏の境界に開くことができる、妙法の功徳こそが、真の煩悩即菩提なのです。
 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、
 「須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。(中略)煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(同 1483)
と御教示されています。日蓮大聖人の仏法を受持すれば、どんな宿業も転じて必ず即身成仏を遂げることができるという、御本尊に具わる煩悩即菩提の功徳を信じ、怠りなく、仏道修行することが大切です。



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