仏教用語の解説(22)大白法1019 令和01年12月16号
  供 養



 供養とは、尊信の念を持ち、供物を捧げ奉仕する供給資養〈くきゅうしよう〉の義で、仏法僧の三宝に対し、真心の念をもって志を奉ることを言います。
 供養については、経論には二種供養・四事供養・十種供養など、様々な供養が説かれています。
 二種供養とは、香華・飲食などを供養する利供養と、教説の如く修行して衆生を利益する法供養のことです・四事供養とは、飲食・衣服・臥具・湯薬を供養することです。十種供養とは法華経『法師品』に説かれる十種の供養法です(後述)。

 供養と布施の違い

 世間では、寺社に志を納めることを「お布施」と言います。
 「布施」とは、もとは出家者が食物などの施しを受けた後、それに報いるため法を説くことを言いました。
 しかし、「布施」という言葉には、僧侶に限らず、人に施しを与える意味も含まれており、本来、仏に対して奉る供物を布施とは言いません。したがって、本宗では「布施」の語は使用しません。

 法華経の十種供養

 法華経『法師品第十』には、
 「若し復人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解説、書写し、此の経巻に於て、敬い視ること仏の如くにして、種種に華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、所W、幢幡、衣服、伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せん」(法華経 319)
とあり、法華経を受持し、法華経に対して華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・所W・幢幡・衣服・伎楽の十を供える十種供養が説かれています。
 また同品には、法華経を修行し、法華経が安置される場所に塔を建てて供養すべきであるとし、さらに、
 「此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば応に、一切の華香、瓔珞、所W幢幡、伎楽歌頌を以て、供養恭敬し、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て、礼拝し供養せんに、当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬ」(同 327)
と示されています。
 つまり、法華経には如来の命、全身が具わっているのであるから、法華経を安置する塔を建てて供養し、その塔に対して、華香を供え荘厳するなどの十種供養を行えば、成仏に近づくと説かれています。
 さらに、仏の滅後に法華経を説く者に対しては、「仏のように敬い、供養すべきである(趣意)」(法華経 324)とも示されています。
 このように釈尊は、法華経こそが仏の命であり、釈尊の滅後は法華経及び、法華経を弘通し、人々を利益する者に対して、仏のように敬い供養すべきであると説かれているのです。

 日蓮大聖人への供養

 大聖人の御書には、衣食や金銭の御供養に対しての御礼の言葉が多く拝せられます。後に大石寺を寄進された南条時光殿をはじめ多くの信徒が、身の危険を顧みず、また経済的に逼迫した中にあっても、末法の御本仏日蓮大聖人に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
 『新池御書』には、
 「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝れたり」(御書 1456)
と、日蓮大聖人に対する御供養の功徳は、釈尊に対して供養する功徳よりも、はるかに勝れると説かれています。その反対に信心が弱く、供養もせずに慢心・悪見を起こしてしまうことは、非常に恐ろしいことなのです。

 身の供養

 「身の供養」とは、仏法のために自らの身を捧げてお給仕し、供養することを意味します。
 法華経『提婆達多品第十二』(法華経356)には、釈尊が過去世に須頭檀王という王であった時、妙法蓮華経を求めるため、王位を捨てて身を捧げ、千年もの間、阿私仙人のために、菓を採り、水を汲み、薪を拾うなどの給仕供養をし、仏となったことが説かれています。
 仏典には、この他にも様々な身の供養が説かれています。
 自宅の御本尊様へのお給仕をはじめ、寺院参詣での諸々のお手伝いなど、仏法のために身をもってお仕えすることが身の供養となります。

 父母・先祖に対する供養

 先祖供養について、「盂蘭盆」の起源と言われる有名な故事があります。
 釈尊の十大弟子の一人である目連尊者は神通第一と言われるほど、神通力に勝れた弟子でした。目連尊者の母は、慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちて塗炭の苦しみに喘いでいましたが、目連尊者の神通力では救うことができませんでした。
 そこで、目連尊者は釈尊の教えを受け、七月十五日に聖僧に百味の飲食を供養したところ、その功徳が母に回向され、母は餓鬼道一劫の苦しみを逃れ、後に目連尊者が法華経の寿量品を信受した時に共に成仏したとされます。
 大聖人も『盂蘭盆御書』(御書 1374)にこの故事を引用され、先祖供養の大事を教示されています。先祖供養に当たっては、御本尊及び仏祖三宝に対して供物を捧げ、さらに塔婆を建ててその功徳を先祖に回向するのです。

 謗法への供養は悪業の因

 大聖人は『米穀御書』に、
 「同じ米穀なれども謗法の者を養うは仏種をたつ命をついで弥々強盛の敵人となる。又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か。又法華の行者をやしなうは、慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし。一切衆生を利益するなればなり」(御書 1242)
と教示されています。日蓮正宗以外の寺・社・教会などへの施しは、法華経の敵である謗法の者を増長させ、養うことになり、結果として災いを招くこととなります。したがって、施した人も仏種を断じて地獄に堕ちるほどの悪業を積むことになるのです。
 一方、一切衆生を救済される日蓮大聖人に供養すれば、結果としてすべての人が利益されるのであり、大功徳を積むことになるのです。

 真心の御供養を

 総本山第二十六世日寛上人は、
 「たとえ山のごとく財をつみ候いて御供養候とも若し信心なくばせんなき事なるべし。たとえ一滴一塵なりとも信心誠あらは大果報を得べし」(『松任次兵衛殿御報』・妙喜寺蔵・諸記録5-312)
と、御供養は信心の真心が重要であり、財物の多寡は問題ではないと御指南されています。
 私たちは、真心をもって日々の勤行・唱題・お給仕等に励み、さらに応分の御供養をさせていただくことが大切なのです。

 次回は、「種熟脱の三益」について掲載の予定です


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