仏教用語の解説(23)大白法1021 令和02年01月16号
  種熟脱の三益
 


 種熟脱の三益とは

 種熟脱の三益とは、下種益・熟益・脱益のことで、仏による衆生教化の始終を作物の生育過程になぞらえたものです。
 まず下種益とは、仏が衆生の心田に成仏の種を下すことです。次に熟益とは、下された種を成熟するために衆生を教化して機根を調えること、そして脱益とは、熟した果実を収穫するように衆生を成仏・得脱させることをいいます。
 この種熟脱の三益は、法華経で初めて説き明かされる法門です。三益が説かれなければ、衆生の成仏の因縁が明確になりません。法華経以前の諸経では三益が説かれていないので、衆生の成仏も定まらないのです。
 天台大師の『法華玄義』には、
 「余教は当機益物にして如来施化の意を説かず。此の経は、仏の教を設けたまう元始を明す」(法華玄義釈籤会本上-76)
とあり、爾前経が、衆生の機根に応じた一分の利益を説いただけなのに対し、法華経には化導の始終が説かれる故に、諸経に勝れると示されています。
 『観心本尊抄』に、
 「設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還つて灰断に同じ、化の始終無しとは是なり」(御書 656)
とあるように、深妙な真理が明かされる大乗の教えであっても、種熟脱の三益が説かれなければ小乗の悟りのように儚いもので、法華経の教えには遠く及ばないのです。

 大通結縁と迹門の三益

 法華経『化城喩品第七』には、大通智勝仏の第十六番目の王子と、釈尊在世の衆生との因縁が説かれています。
 過去三千塵点劫という昔に大通智勝仏という仏と、大通智勝仏が王であった時にもうけた十六人の王子がいました。大通智勝仏は王子の求めに応じて法華経を説き、十六人の王子は父に代わり、それぞれの因縁に従って父の法華経を重ねて説きました。これを十六王子の法華覆講と言います。
 第十六番目の王子は、娑婆世界において法華経を説きましたが、その王子は釈尊の前世の姿で、その時に教化された衆生は、釈尊の法華経の会座に居合わせた衆生であると、釈尊と衆生との過去世からの因縁が明かされたのです。
 『観心本尊抄』に、
 「過去の結縁を尋ぬれば大通十六の時仏果の下種を下し(中略)二乗・凡夫等は前四味を縁として、漸々に法華に来至して種子を顕はし、開顕を遂ぐる」(同 655)
とあるように、『化城喩品』では大通智勝仏の十六王子による下種益と、それ以後、釈尊の爾前の説法に至るまでの熟益、そして法華経迹門の説法による脱益が説かれています。

 本門の三益

 法華経本門『寿量品第十六』では、釈尊の「始成正覚」(釈尊がインドの伽耶城菩提樹下において始めて悟りを開いたということ)を打ち破り、釈尊は実には久遠五百塵点劫という、三千塵点劫よりもはるか遠い昔において成仏していたということが明かされます。これを「開近顕遠」といいます。
 釈尊は久遠五百塵点劫以来、衆生を教化してきたのであり、釈尊在世の衆生も、実は久遠以来の弟子であることが明かされました。
 『観心本尊抄』には、
 「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ」(同 656)
と説かれております。
 法華経本門における三益は、久遠五百塵点劫における釈尊の説法を下種益とし、大通智勝仏の十六王子による法華覆講、さらにインド出現の釈尊による爾前経・法華経迹門の説法を熟益とし、そして法華経本門の説法をもって脱益とするのです。
 また、大聖人はさらに一重深い、寿量品文底の三益を説かれています。
 大聖人は『法華取要抄』(御書734)に、本門に広開近顕遠と略開近顕遠の二つの心があると説かれています。略開近顕遠は「略近を開いて遠を顕わす」と読み、広開近顕遠は「広く近を開いて遠を顕わす」と読みます。
 総本山第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に、
 「天台の広開近顕遠は但本果久成の遠本を顕わし、未だ久遠元初の名字の遠本を顕わさず。故に蓮祖の広開近顕遠に望むるに、実に是れ略開近顕遠なり」(御書文段 512)
と、五百塵点劫の久遠は略開近顕遠で、未だ真実の久遠ではなく、大聖人が説き明かされた文底の久遠元初こそ広開近顕遠、真実の仏の本地であると説かれるのです。
 このことよりすれば、釈尊在世の衆生の真実の下種益は、久遠元初の本仏の説法であり、五百塵点劫・三千塵点劫・爾前経・法華経迹門を熟益として、本門寿量品の説法によって真の脱益を得たのです。
 以上の三益は、釈尊の化導を中心としたものです。
 また、釈尊滅後の正法時代・像法時代の衆生(釈尊滅後二千年までの衆生)も、過去世に下種益を受けた本已有善の衆生であり、釈尊が説き残された仏法によって、熟・脱の利益を受けることができました。しかし、釈尊の仏法によって利益を受けることのできる本已有善の衆生は、像法時代までですべて尽きるのです。

 末法の下種仏法

 今末法の衆生は、釈尊との結縁がなく、成仏の種子が下されていません。これを本未有善の衆生といいます。
 大聖人は『教行証御書』に、
 「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無し。権実の二機悉く失せり。(中略)初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」 (御書 1103)
と説かれています。
 釈尊在世の衆生は、気の遠くなるような長い時間、熟益の教化を受けて、ようやく脱益を得ることができましたが、私たち末法の凡夫は、末法に御出現された久遠元初の御本仏日蓮大聖人の下種仏法を受持することにより下種即脱、即身成仏の大利益を得るのです。
 下種仏法とは、久遠元初の妙法蓮華経の下種であり、この妙法の下種なくして、いかなる衆生も成仏を遂げることはできません。
 大聖人は『法華初心成仏抄』に、
 「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 1316)
と説かれています。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、大聖人が末法に建立された久遠元初の妙法の法体たる、本門戒壇の大御本尊を受持・信行し、即身成仏の仏果を得ることのできる、順縁の衆生であります。この有り難さを自覚し、日々の信行・折伏弘通に精進していくことが大切なのです。


 次回は、「毒鼓の縁」について掲載の予定です


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