仏教用語の解説 (25)大白法1025 令和02年03月16号

     


 劫とは梵語カルパの音写です。『法華文句』に、
 「劫は是れ長時」(法華文句記会本上-70)
とあるように、極めて長い時間を意味します。
 法華経『常不軽菩薩品第二十』
には、「不軽菩薩を迫害した衆生は、千劫の間、無間地獄に堕ち、二百億劫もの間、三宝に巡り合うことができなかった」と説かれています。
 このように仏教では、長い時間の意である劫を用いて、千劫(千倍)、二百億劫(二百億倍)などのように、さらに長い時間も表現しています。
 面倒臭いという意味の「億劫」という言葉も、劫の時間が長くてやりきれないという意味から来ています。

 時の長さを表わす様々な「劫」

 劫の長さは経論により諸説がありますが、譬えで表わされることが多いです。
 代表的なものとして、『大智度論』(大正蔵25-339b/国訳釈経論部3-154)には、芥子劫と磐石劫の譬えが説かれています。
 芥子劫とは、四千里(約二千キロメートル)四方の大城に芥子つぶを満たして、百年に一度、一粒の芥子を取り去ることを繰り返して、すべての芥子がなくなってもまだ尽きないほどの劫という説です。
 磐石劫とは、四千里四方の石山を、百年に一度、柔らかな衣でそっとなでるように擦り、いつかこの石山が磨滅してなくなってもまだ劫は尽きないという説です。
 また、『菩薩瓔珞本業経』(大正蔵24-1019a国訳律部12-35)には、大石を、天人の軽い衣で三年に一度払って、石が尽きる時を劫といい、この石の大きさが一里であれば一里劫、五十里の時が五十里劫、これと同様に百里、千里、万里劫があると示されています。
 また『倶舎論』(大正蔵29-62b/国訳毘曇部26上166)などには、人の寿命の始まりから終わりまでを基準とした、四劫という語があります。
 四劫とは、世界の生成から消滅までの期間を成劫・住劫・壊劫・空劫の四つに分けるもので、これが無限に繰り返されると説きます。
 成劫は大地・草木などの器世間(国土世間)と、有情の世界である衆生世間が成立する期間です。
 住劫は器世間と衆生世間か安穏に存続する期間です。
 壊劫は衆生世間か壊滅し、次に器世間か破壊し尽くされる期間で、この時、劫火と言われる炎が世界を焼き尽くすとされます。
 空劫はこれらの世間のすべてが壊滅し終わって、次の成劫に至るまでの空無の期間をいいます。
 この成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫で一大劫といいます。そして、この基本となるものが小劫という単位で、人間の寿命の増減を基準としています。
 小劫について『仏祖統紀』(大正蔵49-298a国訳史伝部3-1)には、人の寿命が八万四千歳から、百年に一歳ずつ減って十歳になり、次に十歳から百年に一歳ずつ増えて八万四千歳になる、この一減一増が一小劫であると示されています。
 そして二十小劫を一中劫といい、成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫それぞれが一中劫ずつあるとされます。
 さらに四劫のすべて(四中劫)の期間を一大劫といいます。
 ちなみに、この説を計算で求めると小劫は千六百七十九万八千年、中劫は三億三千五百九十六万年、大劫は十三億四千三百八十四万年となります。
 また大劫は過去・現在・未来の三つがあり、過去の大劫を荘厳劫、現在の大劫を賢劫、未来の大劫を星宿劫といいます。そして現在が、賢劫の中の住劫二十小劫のうち、九度目の減劫(住劫第九の減)に当たっていて、この時の人寿百歳の時に釈尊が出現したと説かれています(大正蔵49-299b国訳史伝部3-4)。

 法華経の塵点劫

 そして法華経の中には、三千塵点劫と五百塵点劫という、遥か昔を表わす二つの劫が説かれています。
 三千塵点劫は『化城喩品第七』に説かれています。
 三千大千世界(私たちが暮らす全世界)のすべての国土をすり潰して墨とし、東方に向かって千の国土を過ぎるごとに一点を下していきます。すべての墨を落とした後、墨点を下した国土、過ぎ去っただけの国土、すべての国土をすり潰し、その一塵を一劫(塵点劫)と数えたものです。
 同品では、この三千塵点劫の昔に大通智勝仏という仏が法華経を説き、その後、仏の十六人の王子が再び法華経を説いて時の衆生に結縁したとあります。そしてその十六番目の王子がインド応誕の釈尊の前身であり、その時に化導した衆生が今日の声聞であるとして、過去からの釈尊の化導が明らかにされたのです。
 次の五百塵点劫は『如来寿量品第十六』に説かれます。
 五百千万億那由他阿僧祇もの三千大千世界を擦って塵とし、この塵を持って東方に向かい、五百千万億那由他阿僧祇の国土を過ぎるごとに一粒ずつ落としていって、ことごとく尽くし、塵を落とした国、過ぎ去っただけの国、それらすべての国土を砕いて微塵とし、その一塵を一劫とするという無量無辺の長い時間のことです。
 三千と五百では三千のほうが長いように感じるかも知れませんが、三千塵点劫では最初にすり潰す三千大千世界が一つなのに対し、五百塵点劫では、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界となります。また、三千塵点劫が千の国土を経過して、墨点を下すのに対し、五百塵点劫では五百千万億那由他阿僧祇の国土を経過して一塵を下すのです。
 このように比較すると、三千塵点劫と五百塵点劫では、五百塵点劫のほうが比較にならないほど遥かに遠い昔ということになります。
 『寿量品』には、釈尊が実は五百塵点劫という遥か昔に仏果を成就し、それ以来、常に娑婆世界に常住して衆生を教化してきたことが説かれているのです。

 仏国土は劫末の炎に焼けず

 劫末(壊劫)に起こるとされる劫火について『守護経』(大正蔵19-573b・国訳密部4-193)には、三千大千世界の草木を薪として須弥山を焼こうとしても燃やすことはできないが、劫火が須弥山に点いた時、その炎は、必ず三千大千世界のすべてを焼き尽くすと説かれています。
 しかし、『如来寿量品第十六』には、
 「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず(中略)衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(法華経439)
とあります。
 つまり、私たちが一心欲見仏不自惜身命の信心に徹し、本門戒壇の大御本尊を受持して、信行に励むならば、この娑婆世界は仏国土となり、劫火にも焼けず、常にこの土は安穏であると説かれているのです。
 過去・現在・未来の三大劫という長大な時間軸の中で、今、生を受け、さらに久遠元初の自受用報身の再誕たる御本仏・日蓮大聖人の教えを奉持させていただいている私たちは、その不思議な因縁をよく自覚しなければなりません。
 そして令和三年の御命題達成、仏国土建設のために折伏を行じていくべきなのです。

次回は、「優曇華・一眼の亀」について掲載の予定です


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