仏教用語の解説 (27)大白法1029 令和02年05月16号

     理同事勝 ─真言の邪義─



 理同事勝とは、法華経と大日経は共に一念三千が説かれていることで教理の面においては同じであるが、印・真言は大日経にしか説かれていないため、衆生の成仏ということにおいて大日経のほうが勝れているという、主に比叡山天台宗で用いられた邪義です。
 この法華経を貶める邪義は、インドの訳経僧の善無畏三蔵が大日経を注釈した『大日経疏』の中にあり、比叡山三代の慈覚大師(円仁)や、同五代の智証大師(円珍)が真言を正当化する際にも盛んに主張しました。

 善無畏と一行が一念三千を盗む

 大日経は、善無畏三蔵によって中国に伝えられました。さらに善無畏は、『大日経疏』を執筆する際に、中国の天台宗の僧侶であった一行を記録者として加え、大日経にも、一念三千が説かれていると主張したのです。これについて日蓮大聖人は、『撰時抄』の中で、
 「善無畏は、大日経の教理が低いことが明らかになれば、華厳宗・法相宗にばかにされ、天台宗にも笑われてしまうと考えた。そこで一行という天台宗の僧侶に、天台宗の法門や諸宗の法門を教わり、天台宗の法門を我がものとし、さらに大日経に印と真言とを飾って大日経疏を作ったのである(趣意)」(御書854)
と言われています。すなわち善無畏と一行は、大日経の中に法華経の法門を盗み入れ、それだけでなく大日経のほうが勝れているとまで主張したのです。
 大聖人は、こうした善無畏らの邪義を「理同事勝」と称されています。

 大日経に一念三千・久遠実成はない

 大聖人は『開目抄』に、
 「善無畏三蔵(中略)大日経の『心実相、我一切本初』の文の神に、天台の一念三千を盗み入れ」(同 555)
と述べられました。善無畏が、大日経の「心実相」「我一切本初」という経文をもって一念三千を盗んだとの指摘です。
 まず「心実相」とは、大日経の「入真言門住心品第一」の、
 「秘密主云何か菩提とならば、謂く実の如く自身を知るなり」(大正18-1c国訳密部1-53)
という文を指します。この文について善無畏の『大日経疏』では、
 「彼に諸法実相と云ふは、即ち此の経の心の実相なり。心の実相とは即ち是れ菩提なり、更に別の理なし」(大正39-589b国訳経疏部14-41)
と、法華経の「諸法実相」は大日経の「心の実相」と同義であると勝手に解釈したのです。
 「諸法実相」とは法華経『方便品』に、
 「唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」(法華経89)
とある、仏にしか理解できないとされる深い教理で、天台大師は「諸法実相」をもとに一念三千を説きました。
 しかし、大日経の当該の箇所には「諸法実相」の教理内容は何ら示されていません。大日経の「心実相」が法華経の「諸法実相」であるというのは、善無畏の勝手な言い分です。
 また「我一切本初」とは、大日経の「転字輪漫荼羅行品第八」の、
 「我は一切の本初なり。号して世の所依と名く。説法、等比無く、本寂にして上あることなし」(大正18-22b国訳密部1-114)
という経文です。この文について善無畏三蔵は『大日経疏』に、
 「本初とは即ち是れ寿量の義なり」(大正39-709b国訳経疏部15-66)
と、大日経の「本初」が法華経の「寿量の義」であると述べます。
 法華経『寿量品』には、自受用報身の五百塵点劫の成道について明確に説かれていますが、大日経にはそうした内容は説かれていません。
 すなわち大日経に法身常住の意で出てくる「本初」と、法華経『寿量品』に自受用報身の寿命を表わす意で説かれる「寿量」とでは、本来の意味が違うのです。
 このように「心実相」と「我一切本初」の文をもって、法華経と大日経の教理が同じだという善無畏・一行の主張には、何も根拠がないことが明白です。

 印・真言とは

 印とは印契・印相のことで、手指で様々な形を作り、諸仏の内証や誓願を表わすことです。
 真言は陀羅尼ともいい、諸仏の名前などを梵語の発音のまま唱えることにより不思議な功徳があるとするものです。
 真言宗では、身に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、意に大日如来を観ずれば(意密)、身・口・意の三密(凡慮の及ばない仏の身口意三業)が我が身に相応して即身成仏できると主張します。
 善無畏は、法華経の教理自体は理秘密ではあるが、印と真言が説かれていないから、事理倶密(事も理も倶に秘密)の大日経には劣るというのです。
 しかし、仏道修行には自ずと身口意の三業が具わるのであり、印と真言がないからといって、その経が劣るなどということはありません。
 現に日蓮正宗でも、御本尊を拝し、姿勢を正して合掌し、妙法を唱えるという、身口意の三業にわたる修行が示されています。

 大日経には二乗作仏なし

 大聖人は『開目抄』に、
 「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり」(御書535)
と、諸経の勝劣を判断するには、二乗作仏と久遠実成が重要であると指摘されています。
 声聞・縁覚の二乗が成仏できなければ、仏・菩薩の誓願である「衆生無辺誓願度」(一切衆生を成仏させること)を満足させることができないからです。また、二乗が成仏できなければ、十界互具・一念三千もあり得ません。
 さらに、仏の久遠実成が明かされなければ、その仏は垂迹(本仏ではない)の仏で、その教えも方便ということになってしまいます。
 ところが真言は、大聖人が『真言見聞』に。
 「大日経に云はく『仏不思議真言相道の法を説いて、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず』云云。二乗を 隔つる事、前四味の諸教に同じ。随って唐決には方等部の摂と判ず」(同611)(大日経大正蔵18-10c国訳密部1-77)(唐決新纂続蔵56-674a684a)
と指摘されるように、明確に声聞・縁覚の二乗を除外する表現が大日経にあるのです。中国の天台宗では、法華経に遥かに及ばない方等部の経典に分類してあります。

 比叡山の密教化

 これまで述べたように大日経には、
 「一念三千」「久遠実成」「二乗作仏」といった法華経の法門は何も説かれていません。しかし、理同事勝の邪義によって、あたかもそれが説かれているかのように偽装しています。
 比叡山では慈覚大師・智証大師らが、それをもって真言を正当化し、伝教大師が開いた天台法華宗は有名無実となって形骸化したのです。
 こうした事例を見ても、仏法を正しく伝えていくことは難しく、私たちは、大聖人の正義を根本に正しい仏道修行を行って、正しい法義を伝えていく使命があります。

  次回は、「盂蘭盆」について掲載の予定です


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