仏教用語の解説 (28)大白法1031 令和02年06月16号
盂蘭盆
「盂蘭盆」とは、毎年七月十五日(または八月十五日)を中心に行われる先祖供養の行事のことで、「お盆」ともいいます。
盂蘭盆とは、古代インドの言葉である梵語の「ウランバナ」の音を漢字を用いて表現したもので、「倒懸」という意味です(玄応音義・大日本校訂蔵経35-2-96・卍正蔵67-227)。これは餓鬼道に堕ちた人の飢えや渇きの苦しみが、足を縛られて逆さに吊るされるような苦しみであることから、このようにいわれます。
盂蘭盆の起こり
『仏説盂蘭盆経』(大正蔵16-779・国訳経集部14-436)には、盂蘭盆の起源となった次のような説話があります。
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釈尊に随侍した十人の勝れた弟子の一人に、目連尊者という人がいました。
目連尊者は、小乗仏教の修行によって、阿羅漢〔*1〕という境地に至り、様々な神通力(超人的で不可思議な力)を得て、釈尊の弟子の中でも神通第一と言われるような弟子になりました。
ある時、目連尊者は生み育ててくれた母の恩に報いるため、すべてを見通す天眼通により、亡き母・青提女(しょうだいにょ)がどのようにしているかを見渡しました。すると、母は生前に犯した慳貪の科〔*2〕により餓鬼道に堕ち、飲食できずに骨と皮だけの姿となって、飢渇の苦しみに喘いでいたのです。
これを見て悲しんだ目連尊者は、すぐさま神通力を使い、鉢にご飯を盛って、母のもとに送りました。しかし、母がそれを食べようとすると、ご飯は燃え上かって炭となり、食べることができません。目連尊者は悲しみ泣き叫び、すぐさま釈尊のところに行き、事の次第を申し上げました。
すると釈尊は、
「汝の母の罪は深重であるため、汝の力ではどうすることもできない」
と仰せられ、因果の報いからは逃れ難いことを示されました。
しかし、目連とその母を哀れんだ釈尊は、母を救済する方法として、
「夏安居〔*3〕の最終日、七月十五日の自恣日(じしにち)に、聖僧に飲食などの供養をすれば、その功徳の一端が母に及び、母は餓鬼道の苦しみから逃れることができるであろう」
と説かれたのです。
また一方で釈尊は、僧侶に対して、供養した人の先祖の菩拠を願うように命じられました。
すると、目連尊者と一座の大衆は皆大いに歓喜し、目連尊者は釈尊の仰せの通り、大勢の僧侶に百味の飲食を供養して、青提女は餓鬼道の苦しみから救われたのです。
そこで目連尊者は、釈尊に対し、
「私と母の青提女はこのたび、仏法僧の三宝の勝れた功徳を蒙ることができました。未来において親に孝行を尽くしたいと願う仏弟子も、この盂蘭盆の供養を行うべきだと思いますがいかがでしょうか」
と質問したのです。
すると釈尊は、
「大いに善いことである。毎年七月十五日、父母乃至七世の父母への孝行を思って盂蘭盆の供養を行い、もって父母の長養慈愛の恩に報いなさい」
と、告げられたのでした。
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以上が、『盂蘭盆経』の内容です。
法華経による真の成仏
『盂蘭盆経』に説かれるように、神通第一の目連尊者でさえ、その神通力では、母を救うことはできませんでした。また、盂蘭盆供養の利益も、母を餓鬼の苦しみから逃れさせたに過ぎず、母を仏にすることはできませんでした。
なぜならば、目連尊者自らが、未だ仏になっていなかったからです。
このことについて日蓮大聖人は、『四条金吾殿御書』に、
「抑盂蘭盆と申すは、源(もと)目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつせんだんこうぶつ)となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ」(御書469)
と仰せられています。
すなわち目連尊者は、後に阿羅漢の悟りを捨てて、法華経を信じた利益により、多摩羅跋栴檀香如来という仏に成ることができました。母の青提女は、目連尊者が仏になった功徳善根に引かれて、初めて成仏したのです。
正しい盂蘭盆供養の在り方
供養を営む上で最も大切なことは、正しい御本尊を中心に行うということです。
目連尊者が、小乗の神通力で母を救うことができなかったように、因果の理法は厳然であり、誤った教えによって供養するならば、かえって悪業を積み苦しみを増すこととなるのです。
目連尊者を起源とする盂蘭盆の行事は今日、日蓮正宗のみならず、仏教の各宗各派で行われています。しかし大聖人が、念仏などの謗法を行えば地獄の苦を招くと言われているように、日蓮正宗以外の教えでは、先祖を救うことはできないのです。
また日蓮正宗では古来「常盆常彼岸」と言われます。つまり、常日頃から父母をはじめ先祖代々に感謝し、追善供養を願うことが大切であるということです。
したがって、私たちが朝夕に行う、勤行の五座の御観念文では、先祖代々の追善供養証大菩提を願います。これは亡き精霊のために、私たちが積んだ功徳善根を回向し、先祖の成仏を祈る意味があります。すなわち先祖を供養するためには、まず自分自身が、御本尊に御題目を唱えて、功徳善根を積む必要があるのです。
また大聖人は、精霊のために塔婆を建てれば、精霊のみならず願主にも大きな功徳があることを説かれています。そこで、盂蘭盆会や命日忌などには特に塔婆を建立し、お墓にお参りして先祖の追善供養を願うことなども重要なことです。
私たちにとって盂蘭盆会とは、自らが先祖供養の大切さを再認識する機会であると共に、間違った教えによって悪業を積み、供養しているつもりでいる人に対して正しい供養の在り方を教え、御本尊のもとに導く機会になることを銘記しましょう。
*1阿羅漢 小乗仏教における最高の悟りの境地のこと。
*2慳貪の科 欲深く、物惜しみすること。
*3夏安居 インドの風習で雨期の三カ月間、活発化する動植物の不意の殺生を避けるため、僧が外出せずに一カ所に集まり修行すること。その最終日の七月十五日は自恣日といい、安居中の反省懺悔を行い、また各地に戻っていく。
次回は、「良医治子」について掲載の予定です