仏教用語の解説 (30)大白法1045 令和02年08月16号

  三  衣

 「三衣」とは、一般的には僧侶が着用する三種類の法衣を指します。

 一般的な三衣の由来

 「三衣一鉢〈いっぱち〉」という言葉がありますが、古代インドでは僧侶は三衣と托鉢用の鉢(食器)、その他いくつかの生活用具しか持たず、それ以外の余計な道具を長物として遠ざけていました。今でも一般的に不必要で役に立たないもののことを「無用の長物」といいます。
 仏教における一般的な三衣とは、僧伽梨〈そうぎゃり〉(大衣・九条)、鬱多羅僧〈うたらそう〉(中衣・七条)、安陀会〈あんだえ〉(下衣・五条)の三つになります。
 条というのは、生地の大きさの単位で、条数が多ければ多いほど、幅の広い、大きな袈裟になります。インドの出家者たちは、儀式礼装用(九条)・通常衣(七条)・作務就寝用(五条)と使い分けていたようです。
 インドでは青〈しょう〉・黒〈こく〉・木蘭〈もくらん〉などの濁った色に染めた袈裟を、肌の上に直接かけていましたが、仏教が中国・日本に伝播する過程で、気候や風俗習慣の違いから、僧侶は袈裟の下に衣をまとうようになりました。
 そして袈裟・衣は、宗派ごとに様々な色・形に変化し、鎌倉時代から江戸時代にかけ、権威のある僧侶に朝廷から紫衣の着用が許されるなど、粗末な着衣であったはずの三衣は、絢爛豪華なものに変化し、本来の意義が損なわれていきました。

 日蓮正宗の三衣

 日蓮正宗では、日蓮大聖人・日興上人以来、薄墨色の衣、白色の五条の袈裟、数珠、この三つをもって三衣としています。
 そのいわれにっいては、総本山第二十六世日寛上人が『当家三衣抄』(六巻抄205頁)に詳しく御教示されています。以下、その御指南に沿って解説します。

 忍辱の鎧

 日寛上人は素絹という粗末な生地の薄墨の衣に、白五条の小さな袈裟を着用する理由として、五条の袈裟は「行道雑作衣」といって、起居動作に便利で、折伏行に適していることを挙げられ、さらに降りかかる魔を耐え忍ぶ「忍辱の鎧」の意味があるとされています。
 このように、日蓮正宗の僧侶が薄墨の素絹、白五条の袈裟を用いる理由は、日蓮正宗が折伏の宗旨であり、難を耐え忍び、折伏によって一切衆生を救済するという意義が込められているのです。

 薄墨の法衣と白袈裟

 薄墨の衣を着る理由は、
@初めて信心修行する位(名字即)を表わすため
A見た目ばかりの立派な法衣を着て修行を怠る他宗の僧侶を破折・区別するため
B他宗との相違を明確にし、信じる人は順縁を結び、誹謗する者にも逆縁を結ばせるため
C日蓮大聖人の門下としての自覚を持ち、他宗の僧侶との区別を明確にするため
と示されています。
 名字即とは、初めて仏法を聞き、信のみがある位で、大聖人は『四信五品抄』に、
 「信の一字を詮と為す(中略)信は慧の因、名字即の位なり」(御書1112頁)
と説かれています。
 つまり、末法の一切衆生は、ただ信をもって題目を唱えるだけで成仏を遂げることができます。薄墨色の衣は、末法の成仏の位が名字即にあることを表わすものです。
 次に白袈裟を用いる理由は、
@初心の理即の位を表わすため
A大聖人が白色の袈裟をかけられていたため
B白蓮華を表わすため
とされています。
 理即とは、信心すらない、仏性があるのみの末法の一切衆生を意味します。これも名字即と同様、末法の衆生が初心の理即の位から成仏することを表わします。
 白蓮華の意義について日寛上人は、白袈裟をかけた姿は当体蓮華仏を表わすと共に、日蓮正宗の僧侶は大聖人の弟子として世間の法に染まることなく仏道修行に励み、正法を弘める意義があると御指南されています。法華経『従地涌出品第十五』には、
 「不染世間法 如蓮華在水(世間の法に染まざること 蓮華の水に 在るが如し)」(法華経 425頁)
という経文があります。これは、白蓮華が汚泥の中で白く美しい大輪の花を咲かせるように、地涌の菩薩が濁世にあっても、汚れない浄く美しい心をもっているという、地涌の菩薩の徳を示した経文です。
 この経文は、日蓮正宗の僧侶が、初めて御法主上人猊下から袈裟を賜る際、その袈裟に必ず染筆されています。

 数珠のいわれ

 日蓮正宗では、数珠を「三衣」の一つに数えます。その理由について日寛上人は法性の珠が百八の煩悩を覆い隠すためであると説かれています。
 本宗の数珠には、基本となる珠が一周で百八顆(玉)あり、その一つひとつが煩悩を表わしています。
 日寛上人は『当家三衣抄』(六巻抄224頁)に木●(木+患)子(もくげんじ)経を引き、数珠は本来、自らの煩悩を断じるため、三宝を念じて一つずつの珠を過ごしていくものであると示され、本宗においては、仏宝たる日蓮大聖人、法宝たる本門戒壇の木御本尊、僧宝たる日興上人及び御歴代上人を念じ、一遍の題目を唱え、一つの珠を過ごすべきであると御教示です。
 すなわち、私たちが唱える一遍一遍の題目は、三宝への信心の念をもって唱えることが重要なのです。
 日寛上人は、数珠が、
 「下根を引接〈いんじょう〉して修行を牽課〈けんか〉するの具(機根の低い衆生を導いて修行を推し進めていくための法具)」(六巻抄224頁)であり、数珠を常に自ら身に随え、仏法僧の下種三宝に帰命する心構えで、一遍でも多く題目を唱えるよう御指南されています。

 内心に衣を着す

 このように、日蓮正宗の三衣には、法義の上から様々な意義が込められています。
 他宗では三衣は僧侶に限っていますが、日蓮正宗においては信徒も三衣の一つである数珠を所持しています。このことについて日寛上人は『法衣供養談義』に、
 「他宗の僧は事相の髪を剃り衣を着ていても、心中の謗法の髪は剃り落としていない。対して当宗の信徒は事相の髪は剃らなくても、内心の謗法の髪を剃り、さらに法華の衣を着ているから他宗の僧より勝れている(富要3巻276頁趣意)」
と仰せです。私たち日蓮正宗の信徒は、内心の謗法の髪を剃り落としているのですから、世間の諸悪に染まらず、心には常に法華の衣・忍辱の鎧を着ていることを忘れず、折伏を行じていきましょう。

  次回は、「諸天善神」について掲載の予定です


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