仏教用語の解説 (31)大白法1037 令和02年09月16号

  諸天善神

  「諸天善神」とは、法華経の行者の守護を誓った神々のことです。
 諸天善神について、法華経には梵天・帝釈・日天・月天・明星天・龍神・鬼子母神・十羅刹女等の名が示され、日蓮大聖人は、日本の神の代表である天照太神・八幡大菩薩も諸天善神であると説かれています。

 法華経における守護の誓い

 法華経『安楽行品第十四』に、
 「虚空の諸天、法を聴かんが為の故に、亦常に随侍〈ずいじ〉せん(中略)諸天、昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護す」(法華経396)
と、諸天善神は法華経を聞くために常に法華経の行者に付き従い、昼夜にわたり加護すると説かれています。
 また『陀羅尼品第二十六』(法華経577ー582)では、毘沙門天・持国天・十羅刹女・鬼子母神等が法華経の行者を守護し、迫害を加える者を罰しただすとの誓いを立てています。

 竜口法難で大聖人を守護した月天子

 文永八(1271)年九月十二日、平左衛門尉頼綱は日蓮大聖人を不当に捕縛し、竜口の処刑場で頸を切ろうと企てました。
 竜口に連行される途中、大聖人は鶴岡八幡宮の前で、
 「八幡大菩薩はまことの神か(中略)日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(御書1059)
と、大声で八幡大菩薩を叱責されました。そして、その日の深夜、大聖人が処刑台に据えられ、今まさに頸を切られようとした時、夜空に鞠のような光り物が現われ、刀を持った役人らは恐れおののいて大聖人を切ることができなかったのです。
 この光り物について『四条金吾殿御消息』に、
 「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ(中略)法師品に云はく『則ち変化の人を遣はして、之が為に衛護と作さん』と。疑ひあるべからず」(同479)
と述べられています。すなわち、竜口法難で大聖人を守護したのは月天子であり、それは仏が法華経の行者を守護するために遣わした変化の人であると示されています。

 心の固きに仮る

 雑阿合経(大正蔵2-291a・国訳阿含部3-121)には、帝釈天に近づこうとした醜い鬼が、帝釈の威厳を恐れて姿を消したことが説かれています。帝釈天は、醜い心を持つ者に対し、悪心をもって報いず、動かざる心をもって鬼を退けたのです。
 天台大師は『摩詞止観』(止会下340)にこの故事を挙げ、天は堅固な心を持つ行者を守護するのであるから、道念堅固な者ほど、神の強い守りを受けるとし、妙楽大師は『止観弘決』に、
 「必ず心固きに仮って神の守り則ち強し」(止会下340)
と述べています。大聖人もこれら天台大師・妙楽大師の文を引き、
 「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(御書1292)
と、諸天の守護の力は妙法への強盛な信力によると御教示です。

 神天上法門

 法華経の行者を守護する諸天善神ですが、『立正安国論』には、
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同234)
と、国中に謗法が蔓延するならば国を去って天上に帰り、その社には悪鬼魔神が乱入し災いをもたらすと示されています。これを「神天上法門」といいます。
 すなわち『守護国家論』に、
 「諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗めざれば威光勢力有ること無く(中略)日本国守護の善神も捨離し已はんぬ」(同144)
とあるように、諸天善神は法華経の法味を得て威光勢力を増し、行者及び国を守護するので、謗法が蔓延すれば諸天善神は法味に飢えて、天上に帰ってしまうのです。
 故に、大聖人は弘安三(1280)年の鶴岡八幡宮の火災という現証を受けて、八幡大菩薩は宝殿を焼いて天上に帰ったと仰せです(四条金吾許御文・御書1524)。
 謗法充満の今日、神社に参拝することは、全く功徳がないばかりか、かえって悪鬼魔神の害毒を受けることになります。故に本宗では、古来、神社の参詣を固く誡めてきたのです。

 諸天善神の本地は生身妙覚の仏

 大聖人は『法華取要抄』に、
 「今我等天に向かって之を見れば生身の妙覚の仏が本位に居して衆生を利益する是なり」(同734)
と、諸天善神は法華経本門寿量品を聴聞・信受した功徳により、生身の姿のまま、妙覚という究竟の仏となり、そして衆生を守護し利益すると説かれています。
 さらに総本山第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に、
 「相伝の法門なり。(中略)本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん」(御書文段522b)
と教示されています。
 すなわち諸天善神は日蓮大聖人と一体であり、諸天善神が法華経の行者を守護するという用きは、御本仏日蓮大聖人の御加護でもあるのです。

 初座「諸天供養」の意義

 朝の勤行における初座では、東天に向かって、諸天善神に法味を捧げます。なぜ東天に向かうのかといえば、
 「当宗に日天を先づ拝し奉る事は(中略)日天日蓮と得意して其の心を知るも知らざるも日天を拝し奉るなり」(日拾聞書・歴全1-410)
と第九世日有上人が仰せのように、常に天に在って赫々たる日天子を諸天善神の中心とし、その日天子に向かって読経・唱題するのです。
 『国府尼御前御書』に、
 「日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ」(御書740)
とあるように、日天子はすなわち日蓮大聖人であり、その力用も御本仏大聖人に具わる妙用と拝されます。
 御法主日如上人貌下は、
 「我々が一生懸命に自行化他の信心に励みますと、諸天善神が様々に姿を変えて、私達を守ってくれます。(中略)御本尊様を拝む人を守るのが、諸天善神の役目なのです。すべての根源が、妙法にあるわけです。その妙法を信仰する人を守護するところに、諸天善神の用きがあるわけで、その意味からも我々は、朝の勤行において、諸天善神に法味を捧げている次第であります」(大白法888-4)と仰せです。
 私たちが、諸天善神の加護を得るためには、真剣な自行化他の信心、すなわち勤行・唱題と折伏が重要なのです。

 次回は、「如在の礼・生飯」について掲載の予定です


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