仏教用語の解説 (33)大白法1041 令和02年11月16号

  転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)

 転重軽受とは

 「転重軽受」とは「重きを転じて軽きを受く」と読み、正法を行じた功徳により、未来に受けるべき過去世以来の悪業の大苦を、今生の小苦に転じて軽く受けることです。日蓮大聖人は、涅槃〈ねはん〉経や般泥●(水+亘)〈はつないおん〉経を引用し、『転重軽受法門』や『開目抄』『佐渡御書』などに詳しく説かれています。

 『転重軽受法門』が説かれた背景

 竜口法難の後、佐渡への出立を五日後に控えた文永八(一二七一)年十月五日、大聖人は『転重軽受法門』を著されました。
 竜口法難で斬罪の難を逃れた大聖人は、今度は、生きて帰ることができないとされる佐渡に配流されることになりました。同時に、大聖人に同心する門下にも厳しい弾圧が加えられました。
 そうした状況から「現世安穏後生善処と説かれる法華経を護持弘通する大聖人と門下に、なぜ難が及ぶのか」と疑問を抱く者や、難を恐れて退転する者が現われたのです。
 そこで大聖人は、法華経を弘通して難に値うことは、大難に見えても転重軽受の小苦であるから。むしろ喜んで難を受け、確信を持って仏道に精進するよう教示されたのです。

 涅槃経と般泥●(水+亘)経に見る文証

 大聖人が転重軽受の文証として引用された経文は、主に涅槃経と般泥●(水+亘)経の二つです。
 まず涅槃経には、
 「一切衆生に凡そ二種有り。一には智人、二には愚人なり。有智の人は智慧力を以て能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚癡の人は現世の軽業を地獄に重く受く」(大正蔵12-550a・国訳涅槃部2-214)
とあります。智慧のある衆生は、自らに悪業のあることを知り、悪を止めて善業を修するので、その功徳によって罪を今世に転重軽受する。しかし、無智の衆生は罪を重ね、地獄でさらに重い報いを受ける、と説かれています。
 また般泥●(水+亘)経には、
 「無量の功徳を成就し、大乗経典を信じて法のために身を尽くせば、過去世の無量の諸罪を除き、または罪の報いを軽く受けることができる。醜く生まれたり、衣服が不足したり、食べ物が乏しかったり、貧しい家、邪見謗法の家に生まれたり、あるいは王や人々に迫害されるなどと、現世で軽い報いとして受けるのは、護法の功徳力である(趣意)」(大正蔵12-877c・新国訳大蔵経涅槃部5-119)
とあります。すなわち、正法を受持し、護法のために身を尽くしていけば、過去世の重い罪を滅し、例えば衣食住に不足を生じたり迫害されるなどの、軽い報いに転じて受けておえられると説かれるのです。
 この般泥●(水+亘)経の文について大聖人は『開目抄』に、
 「此の経文、日蓮が身に宛も符契のごとし。(中略)一々の句を我が身にあわせん」(御書572)
と、自らの艱難辛苦と般泥●(水+亘)経の文は完全に合致しており、さらに、
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ、大いに悦ばし」(同578)
と、流罪など自らの身に起きる難は、すべて転重軽受の功徳であるとの、喜びと大確信を示されています。

 不軽菩薩の忍難弘通と其罪畢已〈ございひっち〉

 法華経『常不軽菩薩品第二十』には、釈尊の前世の姿である不軽菩薩が、人々からの悪口罵言や杖木瓦石の難を忍びながら、人々の仏性をひたすら礼拝したという故事が説かれています。
 不軽菩薩が、生涯にわたって但行礼拝・忍難弘通を実践した結果、
 「不軽菩薩 能く之を忍受しき 其の罪畢〈お〉え已〈おわ〉って 命終の時に臨んで 此の経を聞くことを得て(中略)疾く仏道を成ず」(法華経506)
とあるように、すべての罪を転重軽受して滅しおわり(其罪畢已して)成仏したと説かれています。
 つまり、釈尊の前世の姿である不軽菩薩ですら過去世に何らかの罪があり、法華経を弘通して迫害を受け、その難を克服した護法の功徳で成仏したということです。
 大聖人は『転重軽受法門』に、
 「不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも(中略)『其罪畢已』と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはんべり」(御書480)
と、法華経の弘通によって自らが難に値うのは、不軽菩薩が護法のために難に値ったのと同じであり、さらに、過去世の悪業を転重軽受するものであると教示されているのです。

 門下に対する転重軽受の教示

 大聖人は困難な境遇にある門下に対し、たびたび転重軽受の法門をもって激励されています。
 まず、父子で信仰のことで軋轢を抱えていた池上兄弟に対しては、般泥●(水+亘)経の文を挙げ、
 「兄弟が父から迫害を受けるのは、般泥●(水+亘)経の、邪見の家に生まれ、王難に値うなどの、軽罪に転じて受けているものである。もし父の迫害に負けて法華経を捨てるようなことがあれば、親子共々地獄に堕ちることは疑いない。今現在の困難は、過去世の重罪を転重軽受しているのであると心得て、何としてもこの困難を克服するように(趣意)」(同981)
と教示されています。
 また当時、病を患っていた大田乗明に対しては、
 「乗明は真言宗の邪家に生まれ、日蓮に帰依するまでの長い間に多くの謗法を犯してきた。しかし、今は日蓮に帰依し、正法を志した宿縁によって、謗法の重罪が軽瘡に転じて現われている。この病は妙法を受持することによって必ず治り、寿命を延ばすことができるであろう(趣意)」(同913)
と、転重軽受の病を信心によって克服するよう激励されています。

 折伏による忍難こそ、成仏への道

 私たちは、折伏を実践していく中で、様々な困難に直面することがあります。折伏をしなければ、人間間係の軋轢を避けられると思うことがあるかも知れません。
 しかし大聖人は、折伏による難を嫌い、大聖人に意見する弟子檀那に対して、
 「日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(同583)
と、折伏しなければ成仏は思いもよらず、念仏などの謗法者よりも重い罪を受けて地獄に堕ちると、厳しく教示されています。
 私たちは、信心する上での様々な困難を、転重軽受の功徳であると理解し、唱題を重ねて乗り越えていくことが大切です。


  次回は、「八相成道」について掲載の予定です


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