仏教用語の解説 (36) 大白法1047 令和03年02月16号

  八教

 釈尊は、一期五十年の間に多くの教えを説き、「八万四千の法蔵」といわれる数多くの教法・経典を残しました。
 なぜ多くの経典があるのかというと、衆生の機根が千差万別であることから、衆生に適した様々な法をその時々で説く必要があったからです。しかし、それらの経典が中国に伝わると、釈尊の意に沿わない誤った解釈が次々に生まれ、麻糸がもつれる如くに仏教は乱れてしまいました。
 そうした中で天台大師は、釈尊の一切の教えを五時八教に整理分類し、釈尊の究極の教え、出世の本懐が法華経にあることを論証しました。
 五時とは、釈尊が五十年間に説いた教えを時系列で五つに分類するもので、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五つです(「五時」については一月十六日号に掲載)。
 八教とは、釈尊が残した経典を説法の形式について四種類(化儀の四教)、教えの内容について四種類 (化法の四教)の八教に分類する教相判釈です。
 日蓮大聖人も、天台大師の五時八教を基礎として、諸宗を破折されています。今号では、八教について解説します。

 化儀の四教

 化儀の四教とは、頓教・漸教・秘密教・不定教の四種類の説法の形式のことです。化法の四教が薬の内容(薬味)に譬えられるのに対し、化儀の四教は薬の配合方法(薬法)に譬えられます。いわば、煩悩の病に苦しむ衆生に対し、仏教という良薬をどのように効果的に服用させるかという処方箋です。
 頓教の頓とは、「直ちに」の意味で、仏教に対する衆生の能力・理解度(機根)にかかわらず、仏が直ちに高尚な教えを説くことをいいます。
 五時の最初である華厳時の説法は、この形式によって説かれ、釈尊はその反応を見て衆生の機根の程度を試しました。
 漸教の漸とは、「次第に進む」の意味で、仏が衆生の機根に応じて、浅い教えから徐々に深い教えを説くことをいいます。
 秘密教とは、詳しくは秘密不定教といいます。
 仏が説法する際、衆生が同じ説法の座にあっても互いにその存在を知らず(秘密)、さらに同じ説法を聞いた得益が異なっている(不定)ことです。大勢の衆生と共に法を聞いても利益を得ることができない衆生のために、仏は神通力を用いて他の衆生の存在を隠して法を説いたといいます。
 不定教とは、詳しくは顕露不定教といいます。
 衆生の得益が定まっていないことは秘密不定教と同じですが、同一の説法の座にいる衆生は、互いにその存在を知っていることから顕露不定教といいます。
 基本的には、小乗は小益、大乗は大益を得るのですが、中には小乗を聞いて大乗の悟りを得、大乗を聞いて小乗の悟りを得る者などかおり、そうしたことが不定教となります。

 化法の四教

 化法の四教とは、釈尊の一代五十年の説法を、教えの内容によって蔵教・通教・別教・円教の四つに分類したものです。化儀の四教を薬法とするのに対し、化法の四教は薬の内容である薬味に替えられます。
 蔵教とは、三蔵教のことで、経(経典)・律(戒律)・論(解釈)の三蔵を意味します。
 蔵教では、声聞に対して四諦、縁覚に対して十二因縁、菩薩に対して六波羅密か説かれますが、いずれも但空(空にのみ執われること)の理によって見惑・思惑という煩悩を断じ、無余涅槃に入ることをもって最高の悟りとします。『天台四教儀』に、
 「薪尽き火滅して無余涅槃に入るは、即ち三蔵教の仏果なり」
とあるように、蔵教によって三界六道を離れ、輪廻の苦しみから逃れることができたとしても、最後は灰身滅智して心身共に無に帰すのです。しかも、この境地に至るまで、菩薩であっても三阿僧祇劫という、途方もない時間がかかるといいます。
 通教でも同じく空か説かれますが、空理のみに偏らず中道をも説くので、通教の空は、不但空、または体空といわれます。
 こうした通教の空理は、蔵教と通じながら、後の別教・円教へも通じる教えなので、通教と称するのです。
 蔵通二教が声聞・縁覚・菩薩の三乗に対して説かれた教えであるのに対し、別教は、大乗の菩薩のみに説かれる教えであり、かつ円教とも区別されるので別教といいます。
 広く中道を説きますが、その真理は未だ完全ではなく、空と仮の二辺を離れた但中といわれるものです。
 また、菩薩が仏になるまでには、途方もなく長い時間をかけて生死を繰り返し、五十二位といわれる修行の段階を経なければならないとされました。
 円教とは、『天台四教儀』に、
 「円は円妙・円満・円足・円頓に名づく、故に円教と名づくるなり」
とあるように、あらゆる面において欠けることのない、円融円満な教えを意味します。
 円教の教理内容は、大乗経典では蔵・通・別の三教などを雑えて分々に説かれていますが、唯一、法華経は純円一実といって、仏が自身の悟りをそのまま説いた、完全円満な教えとなります。
 法華経『方便品』には、諸法実相が説かれ、一念三千の法理が明らかとなりました。これにより、万物はそのままが空であり仮であり中道不可思議の妙体であるという円融の三諦が明らかとなったのです。円教で説く中道は中道第一義諦ともいい、別教の但中に対し「不但中」といいます。
 また、天台大師は円教の行者の位として、六即を説きました。六即とは、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つです。理即は、仏法を何も知らず、仏性のみがある位。名字即は、何の理解もなく信のみがある位。そして究竟即とは仏の位です。円教に六つの行位・段階がある一方で、すべての位は即の字が示すように、理において仏と差別のない一体の関係にある故、六即のすべての行者が成仏できると説きます。

 法華経は超八醍醐

 これまで述べたように、化法の四教の中では、円教が最も優れた教えです。爾前経にも円教の真理の一分が説かれるのだから、用いてもよいのかというと、そうではありません。
 円教という面においては同じでも、釈尊五十年の説法を五時に配した時、法華経以前の経典は、法華経を説くための方便であることが明らかですから、実教として説かれた醍醐味の法華経とは、意味が異なります。それ故に、法華経の円と爾前の円は区別されます。一切の経の中で法華経だけが純粋な円教であり、八教を超えた醍醐味の教えであるとして、超八醍醐といわれます。

 次回は、「約教・約部」について掲載の予定です


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