仏教用語の解説 (37) 大白法1051 令和03年04月16号

  約教・約部


 これまで前二回で、五時と八教について解説しました。
 今回の約教・約部は、五時八教を踏まえた上で、釈尊五十年の説法中、法華経のみが真実最高の教えであることを、一層明確にするための教相判釈です。

 約教判〈やっきょうはん〉

 五時八教の八教とは、前号で述べたように、化儀の四教と化法の四教を合わせたもので、化儀の四教は、釈尊の説法の形式についての四種類、化法の四教とは、教えの内容についての四種類です。
 そして、約教とは教えの内容である化法の四教、すなわち蔵教・通教・別教・円教の中での勝劣を判ずるということで、約教判ともいいます。
 蔵教は小乗仏教、通教は大乗の初門、別教は高位の菩薩に対する教え、円教は完全円満なる教えです。
 妙楽大師の『法華玄義釈籤』に、
 「皆先に四教に約して、以て麁妙を判ず。則ち前の三を麁と為し、後の一を妙と為す」(法華玄義釈籤会本上-63)
とあるように、蔵教・通教・別教の三教は、円教に対して麁〈あら〉い教え、逆に円教は、蔵教・通教・別教の三教に対して勝れて妙なる教えということになります。

 約部判〈やくぶはん〉

 約部とは、釈尊の一代五時の教説の中での勝劣を判ずることで、約部判ともいいます。
 釈尊一代五時の教説のうち、華厳時には華厳部、阿含時には阿含部、方等時には方等部、般若時には般若部、法華涅槃時には法華涅槃部の経典が説かれました。
 そして約部とは、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華涅槃部の経典の勝劣を判ずることです。
 華厳時には、法身の菩薩に対し、非常に高尚な教えが説かれましたが、声聞・縁覚の二乗は何ら理解できなかったとされます。
 華厳時には、化法の四教のうち別教と円教が兼ねて説かれました。このことから華厳部に用いられた教え(部中の用教〈ぶちゅうのゆうきょう〉という)は「兼〈けん〉」といいます。
 阿含時には、華厳経の説法を聞いて何ら理解できなかった二乗のために、小乗の阿含経が説かれました。阿含部の教えは、化法の四教のうちで、但に蔵教のみが説かれたので、部中の用教は「但〈たん〉」といいます。
 方等時には、小乗に執着する二乗に対して、権大乗が説かれ、教えの勝劣浅深を対比して覚知するように促されました。方等部では、蔵・通・別・円の四教が並び対して説かれるので、部中の用教を「対〈たい〉」といいます。
 般若時には、大乗と小乗が全く別の法門であると思っていた二乗に対し、一切諸法が般若波羅蜜の一法門であるという般若の法開会が説かれ、大乗に縁が薄いと思っていた二乗の執着が打ち払われました。般若部では通・別の二教を帯びて円教が説かれたので、部中の用教を「帯」といいます。
 最後の法華涅槃時は、法華時と涅槃時に分けられます。
 法華時では、爾前(法華経以前)四十余年の教説が、すべて法華経を説くための方便・権教であり、さらに、それらの経教も皆、法華経を方便分別して説いたもので、すべてが法華一乗の妙法であると開会されました。そして、二乗はもとより、十界の衆生は法華経によって、一人として成仏せざる者はないと、一切衆生に成仏の道が開かれたのです。
 法華経は、法華経以前の経教が、蔵・通・別・円の四教を兼・但・対・帯して説くのとは異なり、純円一実の妙法として説かれるために、部中の用教を「純」といいます。
 涅槃時に説かれた涅槃経では、法華経の教化に漏れた衆生のために、再度、蔵・通・別・円の四教を説いて衆生の機根を調え、その後に常住の仏性を説いて、衆生を成仏へと導きました。
 釈尊は法華経によって大体の衆生を済度し、それに漏れた衆生のために涅槃経を説いたので、法華経と涅槃経との関係は、穀物の収穫に例えるならば、法華経が大収、涅槃経が●(手+君)拾(落ち穂拾いの意)となります。
 また、涅槃経では蔵・通・別・円の四教を再度追説〈ついせつ〉した後に、円教の教理である常住仏性によって、権実の隔たりを泯亡する(取り払う)ので、部中の用教は、「追説・追泯〈ついみん〉」となります。

 約教与釈〈やっきょうよしゃく〉・約部奪釈〈やくぶだっしゃく〉

 日蓮大聖人は『諸宗問答抄』に、
 「約教・約部のうち、約教の時は、爾前経にも当分の得道を許したけれども、約部をもって判ずれば、華厳部では、別・円、方等部では蔵・通・別・円、般若部では通・別・円というように、円教以外の悪い似非物〈えせもの〉をつれて説かれている。このことからすれば、法華経以前の教えはすべて麁法となる(趣意)」(御書31)
と説かれています。
 つまり、約教与釈とは、蔵・通・別・円の四教の勝劣を判ずる約教の場合、与えて判釈すれば、法華経以前の爾前経にも当分の円か説かれているという意味です。
 これに対して約部奪釈とは、爾前経に当分の円教が説かれているとはいえ、そこには円教以外の教えも含まれており、奪って判釈すれば、純円一実の妙法たる法華経には劣るという意味です。
 涅槃経においてもしかり、法華経と涅槃経は、円教を説いて一切衆生を成仏に導くという点では同じですが、涅槃経は、大収の法華経に対して●(手+君)拾であり、さらに四教が追説されています。
 このように、約教・約部をもってすれば、ただ法華経のみが釈尊の教えの中心・肝要であり、法華経の円は、超八醍醐〈ちょうはちだいご〉の円(八教を超えて、勝れて尊い醍醐味の教え)として、爾前経及び涅槃経との間に、大きな勝劣があることを知らなければなりません。



 次回は、「法華経の行者」について掲載の予定です


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