仏教用語の解説 (40) 大白法1057 令和03年07月16号

  三度の高名


 日蓮大聖人は『撰時抄』(御書867)に、生涯に三度、仏法の正邪を弁えない為政者を諌めたことを、御自ら「三度の高名」であると仰せられています。
 「高名」とは、手柄を立てるという意味です。なぜ為政者への諌暁が高名なのかと言えば、
 「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる」(御書867)
とあるように、身分の低い一僧侶であった大聖人が仏勅を受け、仏に成り代わって国主を諌暁し、一切衆生の迷妄を晴らしたことが、自らの誉れ、功績であるという意味です。

第一の高名

 文応元(一二六〇)年七月十六日、大聖人は、当時幕府の最高権力者であった前執権・北条時頼に対し、宿屋入道光則を介して『立正安国論』を提出されました。この時大聖人は、宿屋入道に対して「禅宗と念仏宗を排斥しなければ、北条一門に同士討ちが起こり、さらに他国侵逼難を招くであろう」(御書867)と予言されました。この一連の行動が第一の高名です。
 『撰時抄』では『立正安国論』の提出及び、宿屋入道への対面が第一の高名であると記されていますが、
 『別当御房御返事』では『立正安国論』の執筆そのものを、
 「閻浄第一の高名なり」(同729)
と仰せられていますので、その中心は、あくまで『立正安国論』の提出にあります。
 当時日本には、大地震や台風などの相次ぐ災害によって、飢饉や疫病などが起こり、巷は死人であふれていました。
 『立正安国論』では、こうした災いは、人々が正法たる法華経に背き、念仏や禅などの誤った信仰をしているから起こるのであると指摘し、このままでは、近い将来必ず自界叛逆難(同士討ち)と他国侵逼難が起こると、経証を示して予言されました。
 自らの信仰を真っ向から否定された幕府役人や僧侶、鎌倉の人々は、
 「忠言耳に逆らひ良薬口に苦し」(同445)
との格言にもあるように、大聖人を恨み、鎌倉の松葉ヶ谷の大聖人の草庵を襲ったり、伊豆伊東に配流するなど様々な迫害を加えたのです。

第二の高名

 文永五(一二六八)年正月、蒙古からの牒状が届き、いよいよ『立正安国論』に予言された他国侵逼難が現実味を帯びてきました。また同年三月、北条時宗は十八歳の若さで執権に就任しました。大聖人はこれを機ととらえ、時宗に再度『立正安国論』を提出し(安国論副状・御書409)、さらに幕閣や鎌倉の主な寺院・僧侶に対して、『立正安国論』の教説を用いるよう、『十一通御書』といわれる書状を提出しました。
 数度の蒙古からの牒状によって日本国中に緊張が走る中、文永八年八月に大聖人は、平頼綱にも『立正安国論』を提出しました(一昨日御書・御書477、日蓮聖人年譜・富要5-92)。
 頼綱は北条時宗筆頭の家臣で、執権・時宗の威光を笠に着て比類ない権勢を誇っていた人物です。
 文永八年九月十日、大聖人は評定所に召喚され、謗法破折が幕府に対する反逆であるとして、頼綱の詮議を受けます。
 その二日後の九月十二日、大聖人は頼綱に対し『一昨日御書』(御書四七六)を送ります。そこには、一昨日の九月十日、頼綱と物別れになったこと、仏智に基づく『立正安国論』の予言は絶対であること、日蓮だけが他国侵逼難を退けられること、などが記されていました。
 この書を受け取るや否や激怒した頼綱は、同日、大聖人を処刑するため、郎従数百人を従えて大聖人を捕縛しに押し寄せました。
 この時、大聖人は頼綱に向かって、
 「日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ」(同1019)
とその非を鳴らし、さらに、邪宗を破却しなければ日本は必ず亡ぶであろうと、大音声で破折されました。この時の頼綱への破折が第二の高名です。
 この後、大聖人は竜口法難、佐渡配流という、御一期の中でも最も過酷な難を受けることになるのです。
 佐渡配流の間、文永九年二月には、京都六波羅探題を務めていた北条時輔が、異母弟である北条時宗の命によって討たれ、さらに北条氏一門で鎌倉名越に居を構えていた北条時章、教時が誅殺されてしまうなど、二月騒動と言われる同士討ちが起こりました。また文永十年には、蒙古が大規模な日本侵攻の準備を開始するなど、大聖人の予言は現実のものとなっていきました。

第三の高名

 文永十一年四月八日、佐渡配流から赦免となり、鎌倉に戻られた大聖人は平頼綱と対面し、仏法の正邪を糾しました。これが第三の高名です。
 この時大聖人は、
 「念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし」(同867)
と、蒙古の調伏祈祷を行っている真言宗こそが禍のもとであると、真言宗を破折されました。
 また頼綱より、蒙古襲来の時期について尋ねられた大聖人は、
 「経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじ」(同)
と、年内に起こると断じられます。こうした諌暁にも幕府は耳を貸さず、大聖人は、
 「三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれ」(同1030)
との古来賢人の習わしに随い、令法久住の準備のため、身延入山を決意されたのです。
 大聖人の指摘通り、この年の十月、文永の役と言われる一度目の元寇があり、さらに弘安四(1281)年にも弘安の役と言われる二度目の元寇がありました。

兼知未萌は御本仏の力用

 大聖人が未来を予言し、三度の高名を挙げたことは、単なる偶然ではありません。正法治国・邪法乱国という仏法の原理に照らし、邪法が蔓延る日本に災難が起こることは必然だったのです。
 逆に、正法が弘まれば国を安んずるのであり、そのことを説かれた『立正安国論』は、大聖人自らが、
 「仏の未来記にもをとらず、末代の不思議なに事かこれにすぎん」(同1055)
と仰せられています。
 もとより大聖人は、三世を通達される久遠元初の御本仏であり、大聖人が説かれた『立正安国論』は、今現在の世相とも完全に合致しています。
 今月は『立正安国論』提出の月です。私たちは、大聖人の御教示に随い、いよいよ自行化他の信心修行に邁進していきましょう。

 次回は、「立正安国」について掲載の予定です


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