仏教用語の解説 (42) 大白法1061 令和03年09月16号

  主師親三徳

  「主師親三徳」とは、衆生を守護する主の徳、衆生を導く師の徳、衆生を慈愛する親の徳の三つのことです。
 この三つの徳は、私たち衆生が幸せな境界を切り開いていくために頼みとすべき、最も尊敬しなければならない徳です。
 日蓮大聖人は『開目抄』等の御書において、主師親三徳を円満に兼ね具える、衆生にとっての本当の主師親は誰なのかを具に検討し、そして御自身こそが、一切衆生の主師親であることを宣言されています。

 儒教・外道の三徳

 大聖人は『開目抄』に、
 「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり」(御書 五二三)
と、人々が尊敬すべきものに主師親の三徳があり、修学すべきものに儒教・外道・内道(仏教)があり、本当に敬うべき主師親三徳を見極めることは困難であることを示されています。
 儒教では、三皇五帝(古代中国において理想的な政治を行ったとされる、八人の伝説的な帝王)を三徳を具えた天尊と崇めたり、儒教の祖である孔子を崇めたりします。また、インドの外道では、シヴァ神・ビシュヌ神といった神を一切衆生の主君・親であるとし、四韋陀〈しいだ〉という経典を教えの拠り所としています。
 これらに対して大聖人は、
 「かくのごとく巧みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。(中略)過去・未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず」(同 五二四)
と、儒教や外道に一分の理、一分の徳はあっても、過去・現在・未来の三世の因果が判っておらず、人々の後世を助けることはできないと教示されています。さらに、
 「外典外道の四聖三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども実に因果を弁へざる事嬰児のごとし。彼を船として生死の大海をわたるべしや」(同 五二六)
と、儒教や外道の聖人・賢人も所詮は凡夫であり、因果を弁えていないという面については赤子と同じであって、それらを頼みとしても、生死の苦しみを逃れることはできないと仰せです。

 釈尊の三徳

 法華経『譬喩品第三』に、
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す」(法華経 一六八)
とあり、この文は、釈尊の主師親三徳を説かれた経文です。
 大聖人は『八宗違目抄』(御書五一六)に、「今此の三界は皆是我が有なり」が主の徳を、「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」が親の徳を、「而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」が師の徳を、それぞれ表わしていると示されています。
 大聖人は『南条兵衛七郎殿御書』に右の『譬喩品』の文を挙げて、
 「此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」(御書 三二二)
と、諸仏の中で、主師親三徳を円満に具えている仏は釈尊のみであると説かれています。
 すなわち、諸経には様々な仏が説かれていますが、実際に娑婆世界に出現し衆生を教化した仏は、釈尊以外にはおらず、その他の仏は娑婆世界の衆生に縁が浅く、主師親三徳を具えた仏ではないということです。
 大聖人は、出家の師匠である道善房が五体の阿弥陀仏を造立したことに対し、
 「五体阿弥陀仏を造ることは、五度無間地獄に堕ちる罪である。なぜならば、娑婆世界の衆生にとっての親徳を具えた仏は釈尊であり、その釈尊を差し置いて阿弥陀仏を造ることは、親を差し置いて伯父を崇めるようなものであり、不孝の罪になるからである(趣 意)」(同 四四四)
と師匠の謗法を破折されています。
 また、真言宗が大日如来を崇めていることに対し、
 「大日如来とは、どこに出世し、どこで成道し、どこで説法をしたのか。衆生を教化するための仏ならば八相(下天、託胎、出生、出家、降魔、成道、転法輪、入涅槃)を示すはずであるが、誰を父母としてこの世に生まれたのか。娑婆世界の衆生を教化してきた仏は釈尊のみであり、世に二仏がないことは当然の道理である。釈尊を蔑ろにして疎遠の大日如来を崇めることは、不忠であり、不孝であり、外道である(趣意)」(同 六一五)
と、仏法の道理に基づいて、厳しい破折を加えられています。

 日蓮大聖人こそ末法の主師親

 これまで述べるように、大聖人は諸御書に、釈尊のみが娑婆世界の衆生にとっての主師親の三徳兼備の仏
であることを説かれています。しかし、こうした教示は、阿弥陀仏等の爾前権教の仏を破折するために説かれた、権実相対の教えであり、釈尊は在世の衆生にとっての主師親ではあっても、末法の衆生にとっての主師親ではありません。
 なぜならば、釈尊は、法華経『如来神力品第二十一』において、自身の仏法の全分一切を上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱したのであり、釈尊滅後の娑婆世界に出現し、衆生を救済する主師親は、地涌上行菩薩となるからであります。
 すなわち、末法の衆生にとっての主師親とは地涌上行菩薩及び久遠元初自受用身の再誕たる末法の御本仏、日蓮大聖人なのです。
 『開目抄』には、
 「大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり」(同 五二六)
と示された後、
 「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(同 五七二)
と、大聖人自らが大覚世尊(釈尊)に代わって末法の一切衆生を救済する「柱」(主徳)、「眼目」(師徳)、「大船」(親徳)たらんとの三大誓願を述べられます。
 そして、大慈大悲をもって難を忍び、末法の衆生を救済するのは日蓮大聖人をおいて他にはないことを決せられた後、
 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同 五七七)
と、末法に主師親三徳を兼備する仏とは、自らであると結論づけられるのです。
 このことから、大聖人が末法の主師親三徳であることを決せられる『開目抄』は古来、「人本尊開顕の書」と称されています。
 私たちは、大聖人を末法の主師親として尊敬し奉り、その教えのままに、いよいよ精進してまいりましょう。

 次回は、「佐前・佐後」について掲載の予定です


目 次