仏教用語の解説 (44) 大白法1065 令和03年11月16号

  五種の妙行

 「五種の妙行」とは、受持・読・誦・解説・書写という五種類の法華経の修行方法です。勝れて妙なる法華経の修行法なので妙行といい、また、自ら修行し、他に弘通する法師であるという意味から、五種法師ともいわれます。
 法華経『法師品第十』には、
 「若し復人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解説、書写し、此の経巻に於て、敬い視ること仏の如くにして」(法華経319)
と五種の妙行が示され、また『法師功徳品第十九』(法華経474)には、五種の妙行によって六根清浄などの無量の功徳を得ると説かれています。

五種の内容

 天台大師は『法華文句』に、
 「此の品に五種の法師あり。一に受持、二に読、三に誦、四に解説、五に書写なり。(中略)大論に六 種の法師を明す。信力の故に受し、念力の故に持し、文を看〈み〉るを読と為し、忘れざるを誦と為し、宣伝するを説と為す。聖人の経書解し難し、須く解釈すべし。六種の法師は今の経に受・持を然して一と為し、解・説を合して一と為し、読誦を開して二と為し、書写を足して五と為す」(法華文句記会本中612)
と、大智度論の「受・持・読・誦・説・解」の六種の修行を、『法師品』の意義に基づいて書写を加え、五種に分類整理しています。
 すなわち「受持」とは、法華経を信受し、憶持〈おくじ〉(記憶して心に持つこと)して忘れないこと、「読」とは、法華経に親近して経文を見て読むこと、「誦」とは経文を記憶して忘れず、諳んじること、「解説」とは、他人を利益するために法華経の意義を解釈して説くこと、「書写」とは、後世の衆生を利益するために、法華経を書写して伝えること、となります。

自行の法師・化他の法師

 『法華文句』には、
 「自ら五種の行を修する者は自行の法師、他に五種の行を教える者は化他の法師である。通じて修行者は弟子といわれるが、五種の行者は化他を行う者であり、その意義から法師という(趣意)」(同中614)
と説かれています。法師とは仏法を演説する者を意味しますが、五種の妙行は、それを修する者には必ず身口意の三業にわたって化他の振る舞いがあるので、「法師」といわれるのです。

末法は「受持正行」

 日蓮大聖人は『四信五品抄』に、
 「末法に法華経を受持する者は、
一念信解・初随喜品の名字即の位(法華経を聞いて随喜し、わずかな信を起こした者)であり、末法では、信の一字をもって南無妙法蓮華経の題目を受持することが、法華経の本意である(趣意)」(御書1111)
と御教示されています。
 また、同抄には、末法の衆生が法華経一部を読誦することは、容易ではなく、強いて五種を行うならば、たくさんの財宝を積んだ小船が沈没してしまうように成仏することはできないことを仰せです。
 『御義口伝』に、
 「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」(同1795)
と、末法は妙法蓮華経の題目を受持することによってのみ成仏を遂げることを御教示されています。
 「経文に親り之在り」とは、法華経『神力品』の、
 「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑有ること無けん」(法華経 517)
の経文を指します。末法は、法華経を信じ受持することによって成仏は疑いないのであり、五種の妙行の中の受持をもって正しい修行とするのです。これを「受持正行」といいます。

総体・別体の受持

 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』(御書文段227)に、五種の妙行のすべてを行うことを「別体の受持」、御本尊を信じ、題目を唱えること(信心口唱)を「総体の受持」とし、『御義口伝』の「受持の一行にして成仏すべし」との御教示に基づき、末法では総体の受持をもって正行とすることを示されています。
 また、総体の受持を細かく分類するならば、信心(御本尊を信受すること)が受持、口唱(題目を唱えること)が、読誦となり、総体の受持を基本とする本宗にあっても化他のための解説・書写が自ずと具わることを御教示されています。
 同じく日寛上人は『末法相応抄』(六巻抄132)に、五種の妙行について三種を挙げられています。
 一つ目は「一字五種の妙行」といい、五種の妙行のすべてを行うと心が散乱するので、「妙」の一字にすべてを収め、五種の妙行を行うというものです。天台大師が好んで行じ、僧俗にも勧めたといわれています。
 二つ目は「要法五種の妙行」といい、法華経の題目を唱える一行に、五種の妙行のすべてを収めるというものです。天台大師は一切経の総要たる法華経の題目を毎日一万遍唱えていたとされます。
 三つ目は「略品五種の妙行」といい、法華経の中心が『方便品第二』と『如来寿量品第十六』であることから、『方便品』と『寿量品』に法華経一部の意義を収め、読誦するというものです。大聖人の『月水御書』(御書303)の御教示に由来します。
 日寛上人は、これらに基づけば、末法においては、御本尊に向かって題目を唱えることと、『方便品』・『寿量品』を読誦する中に、五種の妙行の一切の意義が自ずと具わると説かれています。

受くるはやすく 持つはかたし

 末法においては、受持正行であるとはいえ、一口に受持と言っても容易なことではありません。
 なぜならば、天台大師の『法華玄義』に、
 「法華は折伏して権門の理を破す」(法華玄義釈籤会本下502)
とあるように、法華経は、方便権教を開いて真実を解き明かした経典であり、誤った教えに対しては、それを折伏しなければ、法華経の正しい意義を顕わすことができないからです。
 故に大聖人が『四条金吾殿御返事』に、
 「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(御書775)
と御教示されるように、正法たる大聖人の仏法を受持するためには、必ず折伏と難が伴い、それを乗り越えていくところに成仏があることを自覚すべきです。

 次回は、「十四誹謗」について掲載の予定です


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