仏教用語の解説 (45) 大白法1067 令和03年12月16号

  十四誹謗
  法華折伏破権門理


十四誹謗

 「十四誹謗」とは、正法に対する十四種の謗りのことで、十四謗法ともいわれます。法華経『譬喩品第三』に、「●(心+喬)慢〈きょうまん〉懈怠 我見を計する者には 此の経を説くこと莫れ(中略)其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん 経を読誦し 書持すること有らん者を見て 軽賤憎嫉して 而も結恨を懐かん」(法華経175)
とあり、この文を釈した『法華文句記』(法華文句記会本中224)に、十四誹謗の名目が挙げられています。
(1)●(心+喬)慢〈きょうまん〉。正法に対して驕り、あなどること。
(2)懈怠〈けたい〉。正法の修行を怠ること。
(3)計我〈けが〉。我見、我執をもって正法を推し量り、判断すること。
(4)浅識〈せんしき〉。正法を自己の浅い知識で判断し、より深く求めないこと。
(5)著欲〈じゃくよく〉。欲望に執着して正法を求めないこと。
(6)不解〈ふげ〉。正法を理解しようとしないこと。
(7)不信。正法を信じないこと。
(8)顰蹙〈ひんじゅく〉。正法に対して不快の念を懐き、非難すること。
(9)疑惑。正法を疑い、惑うこと。
(10)誹謗。正法を謗ること。
(11)軽善〈きょうぜん〉。正法を信受する者を軽蔑すること。
(12)憎善〈ぞうぜん〉。正法を信受する者を憎むこと。
(13)嫉善〈しつぜん〉。正法を信受する者を嫉むこと。
(14)恨善〈こんぜん〉。正法を信受する者を恨むこと。
の十四です。
 十までは正法に対する誹謗で、その後の四つは、正法を受持する者に対する誹謗です。

十四誹謗の罪報

 この十四誹謗を犯した者に対する罪報は、同じく法華経の『譬喩品』に、
 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の仏種を断ぜん」(法華経175)
 「軽賤憎嫉して而も結恨を懐かん 此の人の罪報を 汝今復聴け其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(同 176)
と説かれています。
 つまり、十四誹謗を犯すならば、仏種を断じて一闡提人となり、阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちるとされる重罪なのです。

同門僧俗への誡め

 日蓮大聖人は、松野殿から「大聖人の唱える題目と、我々が唱える題目の功徳とでは、どれほどの違いがあるのでしょうか」という質問を受け、
 「更に勝劣あるべからず」(御書 1046)
と御教示されています。ただし、「此の経の心」に背いて唱える題目には差別があると説かれ、その具体的な要因として十四誹謗を挙げられました。そして、
 「此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし」(同)
と仰せです。
 日蓮正宗の信心をする者は、謗法払いをして入信しているのですから、望んで謗法を犯す人はいないはずです。
 しかし、ややもすると、慢心を起こして法門を自己流に解釈したり、お互いの悪口を言ったり、軽蔑したり、時には恨んだりしてしまうことがあるかも知れません。
 成仏を願う私たちは、『松野殿御返事』の御教示のように、十四誹謗を、努めて我が身に当て、素直な気持ちで互いを尊重し、信行に励んでいくことが必要です。

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法華折伏破権門理〈ほっけしゃくぶくはごんもんり〉

 この言葉は天台大師の『法華玄義』に、
 「法華は折伏して権門の理を破す。(中略)涅槃は摂受にして更に権門を許す」(法華玄義釈籤会 本下502)
と説かれる文で、大聖人の御書中にもたびたび引用されています。
 釈尊は、法華経を説く以前の四十余年間に、爾前権教と言われる、方便の権りの教えを説きました。その中では、二乗や女人は成仏できず、さらに釈尊は、今世で始めて覚りを開いた始成正覚の仏であるとされてきました。このような、真実ではない権教の法門を、「権門の理」といいます。
 しかし、『無量義経』には、
 「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 23)
と、爾前経が未顕真実の方便であることが示され、法華経『方便品第二』では、
 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同 124)
と法華経こそが方便のない正直にして無上の教えであることが明かされたのです。そして、法華経迹門では、二乗作仏・女人成仏、法華経本門では久遠実成など、次々に衆生の執着が打ち破られ、一切衆生成仏の道が示されました。
 法華経『法師品第十』に、
 「我が諸説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり」(同 325)
と釈尊自らが説かれるように、法華経は爾前権教の方便(権門の理)を折伏して、法華経こそが真実第一の教えであることを顕わすという性質があるため「法華は折伏して権門の理を破す」と言われるのです。
 これに対し涅槃経では、法華経の救いに漏れた衆生に対し、蔵教・通教・別教といった方便の教えを再度説き、最終的に円教によって成仏に導きます。涅槃経では方便を含む教法が追説され、敢えて権教を折伏しないので「涅槃は摂受にして更に権門を許す」と言われるのです。

末法は折伏の時

 「法華折伏破権門理」という天台大師の言葉が示すように、法華経は、爾前権教の理を折伏しなければ、正しい意義が顕われません。
 大聖人が『聖愚問答抄』に、
 「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらは威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書 403)
と御教示されるように、末法の世は、人々の心も歪んでしまい、様々な邪法が蔓延って法華経に背く謗法の人が充満している世の中です。そのような時には、まずもって謗法を折伏し、大聖人の仏法の正義を顕わすことが急務であり、最重要となります。
 どれほどの修行を積もうとも、この世に充満する謗法を容認するようなことがあれば、それこそが謗法となり、法華折伏の精神に背くものであることを知らなければなりません。
 大聖人は『如説修行抄』(御書671)に、「法華折伏破権門理」の教えのままに人々を折伏し、それによって万民が南無妙法蓮華経と唱えるならば、現世安穏の世となることは疑いないと御教示です。
 今現在の怱怱たる世上を見る時、私たちはいよいよ折伏を行じていかなければならないのです。


 次回は、「以信代慧」について掲載の予定です


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