仏教用語の解説 (46) 大白法1071 令和04年02月16号

  以信代慧

 以信代慧は「信を以て慧に代う」と読み下します。末法に法華経を修行する者は、あらゆる智慧の修行に代わり、信の一字が大切であることを意味します。
 下総の檀越であった富木常忍は、末法の初心の行者が、日頃修行する上で懸念される七つの事柄をまとめ、大聖人に質問しました。その内容は、諸法の理を観ずる方法、肉食の是非など多岐にわたります。
 こうした質疑に対し、大聖人が、末法の法華経の行者の位と、その位における修行の在り方を説き明かされたのが『四信五品抄』で、「以信代慧」はその中に拝される法門です。

 現在の四信と滅後の五品

 大聖人は、末法に法華経を修行する者の位を明かすため、法華経『分別功徳品第十七』(法華経四五〇)の「現在の四信」と「滅後の五品」について言及されます。
 「現在の四信」とは、釈尊在世の衆生が、『寿量品』の説法を聴聞し、法華経を実践する中で得られる四つの信心の段階です。
@一念信解 『寿量品』の説法を聴いて、わずかな信心を起こす位
A略解言趣 『寿量品』の意義が少し明瞭になって、仏の金言をほぼ理解することができる位
B広為他説 信解を増し、自分のみならず、広く他にも『寿量品』の意義を演説し、持たしめる位
C深信観成 『寿量品』における仏の常住を深く信じ、前の三つに観心の修行を加え、娑婆即寂光の真理を体得する位
 次に、「滅後の五品」とは、釈尊滅後に『寿量品』の説法を聴聞し、修行する中で体得できる、五つの修行の段階です。
@隨喜品 妙法を聞き、軽毀(軽しめ毀る)することなく随順し、歓喜の心を起こす位
A読誦品 自ら法華経に親近し、経を手に取って読み、または暗誦する位
B説法品 前二品の自行に加え化他に進み、他人をも説法教化して受持せしめる位
C兼行六度品 前三品に兼ねて六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を修行する位
D正行六度品 正しく菩薩の実行として六度を行ずる位
 「現在の四信」と「滅後の五品」は名目が異なっていても、義において変わりはありません。滅後の場合は経典の読誦の一品が加わります。

 三学と以信代慧

 大聖人は『四信五品抄』に、
 「近来の学者は、法華経を修行するのには必ず戒・定・慧の三学を具えることが重要であり、一つを欠いても仏道を成就することができないと言っているが、必ずしもそうではない。法華経『分別功徳品第十七』には、法華経の行者の位として、現在の四信と滅後の五品が説かれており、これが法華経を修行する際の大要、亀鏡である(趣意)」(御書1111)
と示されています。
 戒定慧の三学のうち、「戒学」は、身口意による悪を止め、非を防ぎ、善行を実践する教え。「定学」とは、禅定により心を寂静にする方途。「慧学」とは、物事の善悪等を正しく択び取る用きをいいます。
 末法の法華経の修行と戒定慧の三学について大聖人は、
 「問ふ、末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や。答へて曰く、此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る・慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(同 1112)
と御教示されています。
 戒定慧の三学すべてを実践するには、菩薩の六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を実践する必要があります。しかし、釈尊は、滅後の五品のうち、第四・兼行六度品に初めて六度の修行を許され、初・二・三品の行者には、智慧波羅蜜(慧学)のみを修するよう勧められました。
 そして、不信は謗法の因、信は智慧の因であり、法華経はただ信のみがある名字即の位から成仏できるのであるから、智慧が覚束なければ、信を以て智慧に代えて慧学を実践すればよいと御教示されるのです。

 末代の行者は名字即

 また『四信五品抄』に、
 「現在の四信の第一の一念信解と、滅後の五品の第一の随喜品の位は、百界千如・一念三千の宝が込められた筺〈はこ〉であり、十方三世の諸仏も、一念信解と随喜品を出発して仏になったのである。この位は、見思惑すら断じていない名字即の位である(趣意)」(同 1111)
と、仰せられています。
 「名字即」とは、天台大師が法華経の行者の階位について六即を説く中の下から二番目で、ただ仏法を聞いて信を起こしただけの位です。「名字即」の「即」は、法華円教の行人は迷悟不二の義において、すべてが仏に通じ、成仏することができるので即といいます。
 大聖人は、四信五品のうち、「一念信解」と「随喜品」が、名字即に当たると説かれました。
 さらに、法華経『随喜功徳品第十八』の五十展転随喜の功徳を示されます。これは、法華経の教えを受けた人が、随喜して次から次へ語り継ぎ、五十番目の人が受けた教えがわずかであっても、教えを受け随喜しただけで無量の功徳があることを説くものです。この五十番目の人の位は、随喜して信のみがある名字即であり、妙楽大師の『止観弘決』に、
 「教弥〈いよいよ〉実なれば位弥下く」(止観会本中748)
と、法華経がいよいよ真実である故に、名字即の低い位にて大きな利益を受けることを教示されています。

 末法の法華経の修行

 『四信五品抄』にはさらに、末法の修行者が六度の修行をすることは、小船が宝を積み過ぎて海に沈没してしまうようなものであり、仏道を成就することはできない。一向に南無妙法蓮華経とのみ唱えるべきであると教示された後、
 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」(御書 1114)
と、妙法の五字七字に仏の悟りのすべてが込められているのであるから、信心をもって題目を唱える一行に仏教の万行万善の功徳が自ずと具わることを説かれています。
 『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(同 六五三)
と仰せのように、末法の衆生は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に対し信の一念をもって南無妙法蓮華経と唱え奉ることにより、即身成仏を遂げることができるのです。
 以信代慧の教えを深く体し、いよいよ仏道修行に精進いたしましょう。

 次回は、「三宝」について掲載の予定です


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