仏教用語の解説 (47) 大白法1073 令和04年03月16号

  三宝

 仏教においては、一切衆生が尊崇し帰依すべき対象として仏・法・僧の三宝を立てます。
 『宝性論』には、仏はあらゆる人を仏道に導く故、法は信受する者の苦悩を払う故、僧は仏法を正しく修行し伝える故に、それぞれ供養すべきであるとし、さらに、三宝には福田の徳があり、供養する者は大いなる福徳を積むと説かれています。
 また三宝は、
・希有(極めて得がたい)
・明浄(煩悩の垢を離れて浄い)・勢力(不可思議の威徳・自在の力を具える)
・荘厳(世に出て世間を荘厳する)
・最上(勝れて妙である)
・不変(改異することがない)
という六つの徳があり、この故に「宝」というのです。

釈尊仏法における三宝

 釈尊の仏法では、法と僧の二宝は真実の帰依処ではなく、仏宝こそが究極の帰依処、三宝の中心であるとされます。
 釈尊は、衆生の機根を見て、小乗・大乗、権教・実教など、様々な教法を説かれました。これらはすべて釈尊所説の法ですが、法華経こそが釈尊出世の本懐、真実の教法であり、それ以前の法に執われていては、衆生か成仏を遂げることはできません。その法を受持する僧についても同じことが言えます。それ故に、仏こそが衆生にとって最も重要な宝となるのです。
 釈尊の仏法には、次のような三宝を立てることができます。
@小乗の三宝 小乗の仏を仏宝、四諦・十二因縁・六度等の法を法宝、これを修行する二乗・菩薩を僧宝
A権大乗の三宝 権大乗を説く仏を仏宝、通教・別教等の教法を法宝、それを修する通教・別教の菩薩を僧宝
B法華経迹門の三宝 法華経迹門を説いた始成正覚の円仏を仏宝、法華経迹門・理の一念三千を法宝、法華経の会座における声聞・縁覚・菩薩を僧宝
C法華経本門の三宝(文上脱益の三宝) 久遠実成の釈尊を仏宝、法華経本門・事の一念三千を法宝、地涌の菩薩を僧宝
 釈尊在世の衆生は、法華経本門の説法によって成仏を得ることができました。この故に、釈尊の仏法における三宝は、法華経本門の三宝に極まります。
 一方で、釈尊滅後に衆生を利益する教法は、正法時代には小乗・権大乗、像法時代には法華経迹門、末法には法華経独一本門の要法と様々であり、三宝も自ずから異なることを知るべきです。

末法の三宝

 総本山第二十六世日寛上人は『当流行事抄』に、
 「文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり」(六巻抄 194)
と仰せられ、末法の衆生が帰依すべき、時に適った三宝は、釈尊の仏法における三宝ではなく、文底下種の三宝であると教示されています。
 文底下種の三宝とは同抄に、
 「久遠元初の仏宝豈異人〈ことひと〉ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり。(中略)久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり。(中略)久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」(同 196)
と示されています。
 釈尊の仏法は、正法・像法時代で終わり、末法には久遠元初の自受用身たる御本仏日蓮大聖人が出現し、衆生を救済あそばされます。それ故に、末法文底下種の三宝は、仏宝を日蓮大聖人、法宝を本門の本尊、僧宝を唯授一人血脈付法の日興上人と立てるのです。
 さらに『当家三衣抄』には、
 「開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。
 此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え」 (同 225)
と、日興上人を随一とする血脈付法の総本山御歴代上人すべてを僧宝と拝し、三宝と崇めて信行すべきことを御教示です。

三宝一体の義

 三宝一体の義について、日寛上人は『三宝抄』に、
 「若し内体に約せば実に是れ体一なり。所謂、法宝の全体即ち是れ仏宝なり。故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に名づけて円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり。故に三宝一体なり。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以って師 と為し、僧は仏を以て師と為すが故なり。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり」(歴代法主全書4巻392)
と御教示です。すなわち、内証の辺から見れば、仏である日蓮大聖人の全体は事の一念三千の南無妙法蓮華経にして、仏と法は人法一箇・一体不二の関係にあり、さらに僧宝たる御法主上人は、大聖人の内証を法水写瓶される御立場から、三宝一体となります。外相に約せば、仏は法を師とし、僧は仏を師とするため、法・仏・僧の次第があり、総本山客殿では、この意義に基づいて、中央に御本尊、左側に大聖人御影、右側に日興上人御影が御安置されています。

仏宝・法宝は僧によって住す

 大聖人が『四恩抄』に、
 「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪〈たきぎ〉なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(御書 268)
と教示されるように、僧には仏と法を久住させる重要な役割があります。
 ところが、本宗と同じく、日蓮大聖人を宗祖と仰ぐ日蓮宗では、あくまで釈尊を仏宝とし、法宝は法華経・題目と曖昧にし、大聖人を僧宝と下しています。日蓮宗には大聖人以来の血脈がなく、真の僧宝がいないため、大聖人を宗祖としながら、その仏法が失われているのです。
 また『真言見聞』に、
 「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(同 608)
とあるように、三宝の一つを謗ることは、結局その全体を謗ることになると仰せられています。大聖人を信じる一方で、御法主上人猊下の御指南には背反するというならば、それは本当の信心とは言えず、似て非なるものとなってしまいます。現在の創価学会・顕正会などがまさにそれです。
 大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊は、七百年来、血脈付法の御法主上人猊下によって厳護されてきたのです。末法における大聖人の仏法は、三宝一体の上から、御法主上人猊下の御もと総本山大石寺に在すことを拝信すべきです。

仏祖三宝への御報恩

 私たちが正しく信心できるのは、三宝の広大なる恩徳によるものであり、常日頃より御報恩謝徳申し上げることが重要です。
 また御法主上人猊下の意を体し、その名代として各末寺に御奉公される御住職も僧宝の一分として、地域の実状に即した御指導をくださいます。
 僧俗が異体同心して、寺院に集い、御報恩の法会を行い、また折伏行に励むことは、三宝に対する最高の報恩行であり、大きな功徳を積んで身の福運を増すものです。

  次回は、「三障四魔」について掲載の予定です


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