大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (49) 大白法1077 令和04年05月16号

五濁

 濁とは、梵語カシャーヤの訳で、五濁とは悪世末法に発生するとされる五種の穢れのことです。五滓(「滓」は残りかすのこと)・五渾(「渾」とは濁りのこと)とも言います。
 五濁は、劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁の五つで、法華経『方便品第二』には、
 「舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり。是の如し舎利弗、劫の濁乱の時は、衆生垢〈しゅじょうく〉重く、慳貪嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏方便力を以て、一仏乗に於て、分別して三と説きたもう」(法華経 一〇五)
と、仏は五濁悪世の劣った機根の衆生に対し、まず三乗の方便を説き、後に一仏乗の妙法を説いて衆生を導いたと示されています。
 その釈尊が入滅して二千年を過ぎた悪世末法について日蓮大聖人は、さらに人心が荒廃し、様々な災禍が起こる時代であるとして、御書中に「五濁悪世」「五濁乱漫」等と仰せられています。

 五つの濁り

 五濁の概要について述べます。
@劫濁
 劫とは極めて長い時間のことで、飢饉・疫病・争いなどの悪事が長い間続く、時間的な濁りのことです。
A煩悩濁
 惑濁ともいい、心身が煩悩に支配され、濁ることを意味します。天台大師は『法華文句』に、煩悩濁は貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使による濁りであるとし、さらに、
 「瞋恚増劇して刀兵起る。貪欲増劇して飢餓起り、愚痴増劇して疾病起る。三災起るが故に煩悩倍〈ますます〉隆〈さか〉んにして諸見転〈うたた〉熾〈さか〉んなり」(法華文句記会本上七〇二)
と、瞋りは戦争、貪欲は飢饉、愚痴は疫病の発生へと繋がり、その結果思想的な濁りである見濁が盛んになると説いています。
B衆生濁
 煩悩濁が衆生己々の濁りであるのに対し、衆生濁は、煩悩にまみれた衆生が蔓延ることによって生ずる社会的な濁りです。衆生の資質が低下し、道徳が廃れ、悪行が横行する社会の穢れを意味します。
C見濁
 思想的な誤りによる濁りです。『法華文句』(法華文句記会本上七〇一)に、見濁は身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使(五見)を体とする濁りであると示されています。
 身見とは、永遠に自我が存在し、自己の所有物も永遠に自分のものであると執着すること。辺見とは、偏った考え方で、自我が死後に断絶すると考えたり、死後も常住であると考えること。邪見とは、因果の道理を否定すること。見取見とは、身見・辺見・邪見などの間違った考えが正しいと固執すること。戒禁取見とは、間違った戒律や禁制を、正しいと思って行い、執着することです。
 これらは物事の道理に迷う煩悩に犯された姿をいいます。
D命濁
 寿濁ともいい、種々の濁りによって人の寿命が次第に短くなることを意味します。
 これら五濁について、聖徳太子の『法華義疏』に、
 「濁とは濁乱を義となす(中略)五鈍使は煩悩濁に当たり、五利使は見濁に当たる。此の二は是れ濁の正体にして、その余の三濁は相従えて名を得たり」(大正蔵56-76b・国訳経疏部16-244)
と、五濁の根源は、煩悩濁と見濁の二濁にあると釈しています。すなわち、命濁は二濁の報い、衆生濁と劫濁は二濁が盛んであることの結果だからです。
 さらに突き詰めれば、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使も、身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使も、すべては人々が正法を受持せず、謗法を犯すことによって生じるものであり、五濁の原因は、謗法にあるとも言えるのです。

 五濁乱漫の末法

 法華経『方便品』では、仏が五濁悪世に現われて衆生を導くことが説かれており、インド出現の釈尊の時代も濁世でありました。
 ただし、大聖人が『四恩抄』に、
 「仏の在世の時は濁世なりといへども、五濁の始めたりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし」(御書二六五)
と仰せのように、その時は未だ五濁も弱く、衆生の貪瞋痴(煩悩濁)や邪見(見濁)も盛んではありませんでした。
 また『下山御消息』に、
 「正像の古は世濁世に入るといへども、始めなりしかば国土さしも乱れず、聖賢も間々出現し、福徳の王臣も絶えざりしかば政道も曲がる事なし」(同一一四六)
と、釈尊滅後から千年の正法時代、次の千年の像法時代も、それほど五濁は強くなく、大きく世が乱れることはなかったと仰せられています。
 これに対し末法について、『南条兵衛七郎殿御書』には、
 「物のいろかたちをわかまへざる事羊目のごとし。貪瞋痴きわめてあつく、十悪は日々にをかし、五逆をばおかさゞれども五逆に似たる罪又日々におかす。又十悪五逆にすぎたる謗法は人ごとにこれあり」(同 三二二)
と、多くの人が五濁にまみれ、毎日のように十悪を犯し、五逆罪にもまさる謗法を犯していると仰せです。大聖人は、このような五濁の末法において、しかるべくして三災七難が起き、衆生が苦悩に喘いでいることを教示されているのです。

 末法は一切衆生救済の大白法出現の時

 大聖人は『観心本尊抄』(御書六六一)に、法華経『薬王品第二十三』の、
 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経 五三九)
や、天台大師の『法華文句』の、
 「後五百歳まで遠く妙道に沾う」(法華文句記会本上一三八)
等の文を引用し、末法は釈尊の仏法の効力が失われる反面、上行菩薩の出現によって本門の本尊が建立され、衆生がその利益に潤うことを説かれています。
 日蓮大聖人は、上行菩薩の再誕、末法出現の御本仏として、一切衆生成仏の大白法たる三大秘法の仏法を建立され、末法五濁の闇を照らされるのです。

 五濁を浄める折伏行

 大聖人は『聖愚問答抄』に、
 「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらは威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書四〇三)
と、末法濁世においては、衆生の機根が歪んでしまい、正法を弘めることは難しいが、そういう世の中であればこそ、ただ折伏をもって謗法を砕き、日蓮大聖人の正法を流布していかなければならないと御教示されています。
 私たちは、末法の五濁を浄めるため、大聖人の弟子檀那たることを自覚して、いよいよ折伏行に精進してまいりましょう。

 次回は、「神天上」について掲載の予定です

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