大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (50) 大白法1079 令和04年06月16号

神天上

神天上とは

 「神天上」とは、日蓮大聖人が『立正安国論』等において示された法義で、人々が正法に背き、国中に謗法が充満するならば、国を守護する諸天善神が法味に飢えて天上に帰ってしまうという教えです。神天上法門とも言います。
 『立正安国論』に、
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書 二三四)
とあるように、善神が天上に帰った後の神社には、悪鬼や魔神が乱入し、種々の災いをもたらすとされます。
 この神天上の教えにより、古来、本宗では、神社への参詣が固く誡められてきました。

 神天上の根拠

 法華経『安楽行品第十四』には、
 「虚空の諸天、法を聴かんが為の故に、亦常に随侍〈ずいじ〉せん。(中略)諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」(法華経 三九六)
とあるように、諸天善神は、法華経を聞いて威光・勢力を増すのであり、そのために、常に法華経の行者に尽き従い、昼夜にわたって守護すると説かれています。
 逆に、人々が法華経に背き、誤った信仰が蔓延すれば、善神は法味に飢えて、天上に帰ってしまうのです。
 この神天上の根拠として、大聖人が挙げられるのは、次の『金光明最勝王経』の文です。
 「我ら(四大天王)及び余の眷属、無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味はひに背き正法の流れを失ひて、威光及以〈および〉勢力有ること無からしむ。(中略)斯くの如き事を見て、其の国土を捨てゝ擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。既に捨離し已〈お〉はりなば其の国当に種々の災禍有り」(立正安国論235/大正蔵16ー429c〜430a・国訳大蔵経経部11-140)
 ここにあるように、国主及び民衆が妙法に背くならば、諸天が国を捨て去り、その結果、種々の災禍があると、同経では具体的に疫病流行や飢饉などの自然災害、また他国による侵略さらに「枉げて辜無きに及ばん」と、罪のない人までもが苦悩に喘ぐ様相が説かれています。

 正直の頭に神宿る

 「正直の頭に神宿る」とは、正直な人には神の助けがあるとの諺ですが、大聖人は『四条金吾殿許御文』に、
 「八幡大菩薩はインドにあっては釈尊として法華経を説いて『正直捨方便』と言い、日本にあっては正直の頂きに宿ると言われた。しかし、日本には正直に法華経を受持する人がいないために、弘安三年の十一月十四日に、自ら宝殿を焼いて天に上ってしまった(趣意)」(同 一五二四)
と、弘安三年十一月の鎌倉鶴岡八幡宮の火災は、日本に正直な者がいないため、八幡大菩薩が天上に帰ってしまったことの現証であると示されています。
 ここでいう正直とは、世間的な意味での正直ではなく、法華経『方便品第二』に、
 「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(法華経一二四)
とあるように、爾前権教をはじめ、一切の余事を廃して、法華経を受持することを意味します。

 神社参詣は厳禁

 冒頭にも述べたように、神天上法門は、神社への参詣を禁止する重要な意味を持ちます。
 『富士一跡門徒存知事』に、
 「聖人御在生九箇年の間停止せらるゝ神社参詣」(御書 一八六八)
とあるように、大聖人は一貫して神社への参詣を誡められてきました。
 しかし、大聖人が御入滅されてから、身延の地頭・波木井実長や五老僧の門流にあっては、神社参詣を容認するようになっていきました。
 日興上人の著された『原殿御返事』には、民部日向の義として、
 「守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべし」 (日蓮正宗聖典六九五)
と、日興上人が説く神天上の法門を偏った法門であると貶め、法華経を信仰する者が参詣すれば善神が来会するのであるから、どんどん神社参詣をするようにという邪義を展開していきました。
 これに対し、日興上人御一人は、
 「安国論の如く聖人の御存生在世二十年の様に信じ進らせ候べし」(同六九七)
と、大聖人御在世の時と同じように、神社参詣などの謗法を停止するよう、波木井実長に訓誡されています。

 本宗の信仰における神

 日寛上人の『撰時抄愚記』には、
 「凡そ神天上とは是れ謗者の前に約するなり。若し信者の前に約すれば、諸神恒に頂に居するなり」(御書文段三二六)
と、謗法の者には神の加護はないが、大聖人の教えを正しく信じる者の頭上には、常に善神が宿り、守護の用きをすると御指南されています。そのため、本宗の朝の勤行の初座では、諸天善神に法味を捧げ、その威光・勢力が盛んになるよう御祈念しているのです。
 大聖人が『祈祷抄』に、
 「法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一つも来たりてまぼり〈守り〉給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし」(御書六三〇)
と仰せられるように、八部衆等の諸天善神は、法華経において、法華経の行者の守護を誓っており、どんなに智慧がなく、戒を持たないような者に対しても、南無妙法蓮華経の題目を唱えるならば、必ず来会して守護の誓いを果たすと御教示されています。さらに、御法主日如上人猊下は、
 「我々が一生懸命に自行化他の信心に励みますと、諸天善神が様々に姿を変えて、私達を守ってくれます。(中略)御本尊様を拝む人を守るのが、諸天善神の役目なのです。すべての根源が、妙法にあるわけです。その妙法を信仰する人を守護するところに、諸天善神の用きがある」(大白法八八八号)
と御指南されています。御本尊を受持する者に対して、必ず諸天善神の加護があるということは、御本尊に具わる力用の一つであるということを拝信すべきです。
 本宗では、けっして御本尊の他に神を祀ったり、神社に詣でることを許しません。あくまでも信仰の対象は、御本尊であり、御本尊への真剣な唱題、自行化他の信心によって、諸天善神の加護があるのです。

 次回は、「本已有善・本未有善」について掲載の予定です

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