大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (51) 大白法1081 令和04年07月16号

本已有善・本未有善

本已有善とは

 「本已有善」は「本已に善有り」と読みます。「本」とは過去の久遠を、「善」とは法華経による下種を指します。つまり、久遠元初に聞法下種を受けて、既に成仏の種を心田に植えられている機根のことを本已有善といいます。
 久遠元初において、名字凡夫の釈尊は本因下種の妙法をもって、一切衆生の心田に仏種を下されました。この時、素直に妙法を受持して仏道を成じた順縁の機根の者がいる反面、妙法を受持しなかったり、小乗に堕ちていった逆縁の機根の者がありました。
 逆縁の機根は、成仏するまでの間に久遠五百塵点劫、三千塵点劫、今日(三千年前にインドに出現した釈尊)と、それぞれ法華経の説法を受けていったのです。また、途中退転した者は、長らく悪業の報いを受けました。
 すなわち、本已有善の衆生とは一度は退転しながら、再び法華経に巡り合えた衆生であり、釈尊在世の衆生を意味します。
 『法華文句』に、
 「問う、釈迦は出世して踟●(足+厨)〈ちちゅう〉して説かず、(中略)本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう」(法華文句記会本下452)
とあるように、釈尊は本已有善の衆生が、再び退転して仏種を破ってしまうことがないよう、衆生の機根を見て、法華経を説くことを踟●(足+厨)(躊躇)し、いったんは爾前四十余年の方便権教を説いて衆生の仏種を守り、その後に法華経を説いて衆生を得脱させたのです。

 本未有善とは

 「本未有善」は「本未だ善有らず」と読みます。過去世に妙法を聞いたことがなく、未だかつて聞法下種を受けていない機根を意味します。
 『法華文句』に、
 「常不軽は一たび見て造次〈ぞうじ〉にして言うは何ぞや。(中略)本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(同)
とあるように、不軽菩薩が出現した、威音王仏の像法時代の衆生の機根は、本未有善でした。その時は、衆生が不軽菩薩を毀って悪業を積み、かえって地獄に堕ちるなどの毒の作用となったとしても、折伏をもって強いて成仏の種子となる法華経を説き、衆生に逆縁を結ばせたのです。
 なぜ、不軽菩薩が本未有善の衆生に対してこのような化導を用いたのかというと、衆生が成仏するためには、必ず衆生の心田に法華経による仏種が下されなければならないからです。それ以外の、衆生の機根に合わせて説かれた方便権教は、成仏の種とはならないのです。このように、折伏をもって衆生に法華経との逆縁を結ばせる化導を、折伏逆化〈ぎゃっけ〉と言います。
 法華経『常不軽菩薩品第二十』(法華経504)には、不軽菩薩とは釈尊の前世の姿であり、不軽菩薩を軽毀して阿鼻地獄に堕ちた衆生は、跋陀婆羅〈ばつだばら〉菩薩等の法華経の会座に集った衆生であると説かれています。これらの衆生は、不軽菩薩の逆縁の教化によって成仏を遂げるのです。

 正像末の三時と機根

 釈尊は大集経で、自身の滅後の正法・像法・末法時代の三時について詳しく説かれています。
 釈尊滅後、初めの一千年を正法時代といい、衆生の機根が勝れており、衆生自身の力で悟りを得ることができる時代です。次の一千年は像法時代といい、仏法が形骸化する時代です。この時代になると衆生の機根は徐々に衰えていくものの、仏像や寺塔を建て、経を読誦することで利益を得ることができるとされています。そして滅後二千年以後を末法といい、衆生の機根は廃れ、争いが絶えない時代になると説かれます。
 この末法は万年とも尽未来際〈じんみらいさい〉とも言われます。
 大聖人は『曽谷入道殿許御書』に、
 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(御書 七七八)
と、末法は、釈尊の説いた教えによって利益を受けることのできる本已有善の衆生が尽きてしまうので、今また不軽菩薩が衆生に対して逆縁を結んで衆生化導をしたように、本未有善の衆生に対し、毒鼓の縁を結ぶべき時であると教示されています。
 毒鼓の縁とは、毒を塗った太鼓を打つと、その音を聞いた人は、それを聞こうとしなくても皆死んでしまったという涅槃経の『如来性品』に説かれる話です。
 これは、一度大乗経典を聞いた人は、耳を貸さず、受持しなかったというだけで、それが毒となり、悪業の報いを受けてしまうという、仏の逆縁の化導を顕わしたものです。しかしこの毒は、最終的には衆生の煩悩や悪業を滅し、成仏の因縁となるのです。

 不軽の跡を紹継す

 大聖人は『聖人知三世事』に、
 「我が弟子等之を存知せよ。日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(同七四八)
と、自らが不軽菩薩の化導を紹継し、いかなる難が競い起ころうとも、末法の本未有善の機に対し、本因下種の妙法を折伏弘通するとの決意を示され、『法華初心成仏抄』には、
 「当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同一三一六)
と、折伏を受けた人が大聖人を謗るようなことになったとしても、それが毒鼓の縁となるのであるから、順縁・逆縁いずれの衆生をも、折伏によって成仏へと導けるのであると説かれています。

 下種の正体

 大聖人は『教行証御書』に、
 「当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(同一一〇四)
と、末法の衆生に対し「本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経」をもって下種すると御教示されています。この南無妙法蓮華経とは、末法に日蓮大聖人が建立された三大秘法総在の本門の本尊、中でも、本門戒壇の大御本尊を意味します。一切衆生は、この妙法を受持することで未来永劫に成仏の境界を得ることができるのであり、逆縁の衆生であっても将来必ず順縁に転じ、成仏を遂げることができるのです。
 私たちも、不軽菩薩の跡を継ぎ、万難を排して折伏逆化に努めてまいりましょう。

  次回は、「十界」について掲載の予定です

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