大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (52) 大白法1083 令和04年08月16号

十界



 十界とは、迷悟一切の境界を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種に分別したものです。

 十界の根拠

 華厳経『十地品』(六十華厳大正蔵九巻五七二a・国訳大蔵経経部6-301・八十華厳大正蔵10-205b・国訳一切経華厳部2-282)には、十地の菩薩(大乗の菩薩のうち、高位の菩薩)が仏の境界に近づく時、無量の光明を出して十界を遍ねく照らすと説かれています。また法華経『法師功徳品第十九』(法華経476)には、法華経を受持する者は六根清浄の功徳を得て、地獄から仏までの十界の声を聞くことができるとあります。大聖人の『十法界明因果抄』(御書205)でも、華厳経や法華経の文を挙げ十界の根拠とされています。
 また、天台大師の『摩訶止観』(止会中278)では、衆生各々に因縁果報と諸法があり、境界も高低様々であることから分別して十法界となると示されています。

 十界の概要

@地獄界 十界のうち最悪の境界。地は最低、獄は囚われることを意味します。間断なく極苦を受ける悲惨な境界です。
A餓鬼界 飲食を得ず、常に飢渇の苦しみが極まりない境界。
B畜生界 弱肉強食の本能のままに、互いに喰らったりするなどの苦しみを受ける境界。
C修羅界 阿修羅界ともいい、常に闘争して苦悩を受ける境界。
D人界 道徳を持ち、苦楽交錯する境界。
E天界 三界・二十八天等に生ずるも、五衰(天人の死に際して現われるという五種の衰えの相)を免れないため一時的な境界。
F声聞界 如来の四諦(苦の現実相とその原因【苦諦・集諦】、さらに苦を脱却した悟りの境地とそこに至る修行【滅諦・道諦】)の法門を聞き、小乗の悟りを得る境界。
G縁覚界 独覚ともいう。無常の姿(十二因縁)を観じ、小乗の悟りを独りで得る境界。
H菩薩界 自らは六度(菩薩が修行すべき六種の徳目、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)等を修して成仏を期し、慈悲心を持って他をも仏道に導こうとする境界。
I仏界 円満な智慧によって悟りを得、大慈大悲によって衆生を導き、常楽我浄の四徳を顕わす最高の境界。
 この十界のうち、地獄界から天界までは「六道」・「六凡」と言い、輪廻生死を繰り返す迷いの境界とされます。特に苦しみの境界である地獄・餓鬼・畜生の三界は「三悪道」や「三悪趣」・「三途」と言い、修羅界を合わせて「四悪道」・「四悪趣」とも言います。
 これに対し、声聞界から仏界までは、輪廻生死の苦を離れた「四聖」と言い、小乗の悟りを得る声聞・縁覚は「二乗」、これに菩薩を加えて「三乗」とも言います。『摩訶止観』では、十界にはそれぞれ異なった国土があると示されています。

 六道の果報

 華厳経『十地品』には、
「十不善の道を行ぜば、則ち地獄、畜生、餓鬼に堕ち、十善の道を行ぜば、則ち人処、乃至有頂に生ぜん」(六十華厳大正蔵九巻五四九a)国訳大蔵経経部6-209・八十華厳大正蔵10-185c)
とあり、十不善道(十悪)を犯す者は、罪の軽重によって三悪道のいずれかに生じ、十善(十悪を犯さない)の者は、人界・天界のいずれかに生ずると説かれています。十悪とは殺生・偸盗(盗み)・邪淫・妄語・綺語(真実に反し言葉を飾ること)・悪口・両舌(二枚舌)・貪欲・瞋恚・邪見の十を犯すことです。また、華厳経には、よしんば十悪の者が人界に生まれることがあっても、短命・多病であったり、貧しかったり、誹謗されたり、欺かれたり、諍いが絶えないなどの報いがあり、結局はまた三悪道に堕ち、苦しみから逃れられないと説きます。
 また、仏教で説く悪の中で最も重いものに、殺父〈しふ〉・殺母〈しも〉・殺阿羅漢(阿羅漢を殺す)・破和合僧(和合僧団を破る)・出仏身血〈すいぶっしんけつ〉(仏の身より血を出す)の五逆罪があり、どれか一つでも犯せば無間地獄に堕ち、無量劫に間断のない重苦を受けるとされています。
 さらに、五逆罪に匹敵する重罪に謗法(誹謗正法)があり、法華経『譬喩品第三』には、
 「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば(中略)其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(法華経175)と、謗法の者は阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて重苦に喘ぐと説かれています。

 十界互具

 天台大師は、法華経『方便品第二』の「諸法実相」の文をもとに、
 「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。(中略)介爾〈けに〉も心有れば即ち三千を具す」(止会中296)
と、衆生己々の一念には十界及び三千の諸法が自ずと具わり、衆生の一念は法界に遍満していると示しました。さらに妙楽大師は『金剛●(金卑)』に、
 「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」(大正蔵46巻781a・国訳諸宗部14-99)
と、阿鼻地獄の命とその境遇は仏の一心に具わり、仏の身とその国土は、凡夫の一念の中に具わると説き、十界互具の意義を徹底しました。
 この十界互具は、法華経に二乗作仏や悪人成仏(提婆達多の成仏)が説かれることにより初めて開かれる法門です。十界互具と、それを土台とする一念三千こそが、一切衆生成仏の根本的な原理となるのです。
 さらに法華経『如来寿量品第十六』には、私たちの住する娑婆世界こそが仏の常住する仏国土であり、衆生の境界が仏界へと開かれれば、自ずとその住処も浄土となることが説かれました。

 瞋るは地獄

 大聖人は『観心本尊抄』に、
 「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。(中略)四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし」(御書647)
と、末法の衆生の己心にも「瞋るは地獄」というように、十界の命が具わり、四聖の命も冥伏していると示されました。さらに、
 「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(同)
と、凡夫が法華経を信ずることは、仏界の命を具足することになると教示されています。
 『当体義抄』には、
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同694)
と説かれています。正直に方便を捨てて法華経を信ずるとは、一切の邪義・邪宗を捨てて、大聖人の教えのままに本門戒壇の大御本尊を素直に信ずることです。その上で、南無妙法蓮華経と題目を唱えるならば、煩悩・業・苦の三道の身を、直ちに法身・般若・解脱の三徳の身に転じて即身成仏することができるのです。『開目抄』に、
 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくは、自然に仏界にいたるべし」(同5づ)
とあります。いかなる諸難が起ころうとも、疑いを生せず、信心を貫いていくところに、自らの命を仏界へと開く道があるのです。

   次回は、「草木成仏」について掲載の予定です

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