大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (53) 大白法1085 令和04年09月16号

草木成仏



 草木成仏とは、草花や樹木のように感情を持たない(非情)生命であっても、私たちのように感情を持つ有情の衆生と同じように本来仏性を具えており成仏することができるという、法華経に基づく法理です。中国の天台大師が初めて明らかにしました。

 天台大師・妙楽大師が説いた草木成仏

 非情である草木の成仏については、古来より様々な議論があります。中国の僧で三論宗の吉蔵は、理論的には草木にも仏性はあるが、心がない故に成仏はない〔*1〕としました。同じく中国の華厳宗の法蔵は、草木は自ら仏性を開くことができず、成仏できない〔*2〕としました。
 これに対し、天台大師は『摩訶止観』において、
 「一色・一香といった、あらゆる微細な存在も、すべて成仏することのできる中道実相の当体である(趣意)」(摩訶止観弘決会本上五五)
と説きました。また、妙楽大師はこの意義を釈して『止観弘決』に、
 「事においては有情と無情には差異があるが、理においては差異がなく、等しく仏性を持った当体である(趣意)」(同 五六)
と説き、無情が成仏する十の意義を説いています。

 草木成仏の根拠となる一念三千

 一念三千とは、法華経『方便品第二』に示される、「諸法実相」の意義を、天台大師が『摩訶止観』(摩訶止観弘決会本中二九六)に釈したもので、あらゆる衆生のわずか一念の心に、地獄から仏界までの三千の諸法が具わるという法理です。
 三千という数量には国土世間の一千があり、その中の衆生(正報)が暮らす拠り所である草木国土(依報)に、様々な因縁果報があり、悪の国土・善の国土や成仏・不成仏があると示されています。
 また、妙楽大師は『金剛(金卑)』に、
 「一草一木、一礫一塵、各々一仏性、各々一因果ありて、縁了を具足す」(大正蔵46-784b・国訳諸宗部14-112)
と、草木や石ころ、塵一つに至るまで、成仏に至る因果と仏性が具わっていると明かしました。
 そして法華経『如来寿量品第十六』に、私たちの暮らすこの娑婆世界が仏の常住する本国土であるということが説かれていますので、娑婆世界の山川草木も、仏の依報・国土として成仏の義が具わるのです。

 大聖人の草木成仏義

 大聖人は『四条金吾釈迦仏供養事』に、
 「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。(中略)国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」(御書九九二)
と説かれています。
 草木とは、一念三千で説くところの国土世間であり、法華経の力をもってすれば草木に仏の魂魄を入れることができ、これを草木成仏というのです。
 さらに『本尊問答抄』に、
 「仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり。然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(同 一二七五)とあるように、仏は法華経より生じ、法華経こそが仏の神である故に、草木を開眼供養できるのは法華経のみであると説かれています。
 ところが、大聖人当時の天台宗・真言宗は、密教の修法をもって開眼供養を行っていたとされ、大聖人は『清澄寺大衆中』に、
 「仏を開眼するにも仏眼大日の印真言をもって開眼供養するゆへに、日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれなり。此の悪真言かまくらに来たりて又日本国をほろぼさんとす」(同 九四六)
と、真言の大日如来や仏眼尊の印・真言によって木画の像を開眼することはできず、かえって仏像に天魔が入り替わって、それを拝む人々に災いや不幸をもたらすと御教示です。

 草木成仏は死の成仏

 大聖人は『草木成仏口決』に、
 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(同 五二二)
と御教示されています。「妙法蓮華経」の題目のうち、「妙法」は有情の成仏、「蓮華」は非情の成仏を表わしており、題目の功徳によって、生ある衆生は成仏を遂げ、死した衆生も塔婆の開眼供養によって草木成仏を遂げるのです。
 すなわち、生あるものが死ねば、肉体はなくなってしまいます。しかし、死んだ後も命は地水火風空の五大の中に冥伏しており、塔婆供養などの仏事を行えば、死者はさらに草木成仏の功徳を受けることができるのです。

 不改本位の成仏と木画二像の成仏

 総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「草木成仏に略して二意有り。一には不改本位の成仏、二には木画二像の成仏なり。
 初めの不改本位の成仏とは、謂わく、草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり。(中略)二に木画二像の草木成仏とは、謂わく、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり」(御書文段二一三)
と示されています。
 不改本位とは、草木の全体が本来自然のままで、三身相即の仏の体であるということです。法界全体を身とする法身如来には、智慧の身である報身如来と、衆生を導く応身如来が具わることから、草木を含む法界全体が本来仏の当体なのです。
 これに対し、木画二像の成仏とは、木像や画像に一念三千の仏種をもって開眼するとき、その木画の全体が生身の仏となるということです。
 日寛上人が、
 「草木成仏の両義を暁むれば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うこと勿れ」(同 二一四)
と仰せられるように、草木成仏の理によって建立され開眼された御本尊は、生きておられる生身の仏となるのです。私たちが帰命依止の当体として御本尊を眼前に拝し奉ることができるのは、草木成仏の原理によるのです。

 *I大乗玄論(大正蔵45-40c・国訳諸宗部1-164)
 *2華厳経探玄記(大正像35-405c・国訳経疏部10-33)

  次回は、「結要付嘱」に ついて掲載の予定です

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