大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (54) 大白法1087 令和04年10月16号

結要付嘱



 結要付嘱とは、釈尊が法華経『如来神力品第二十一』に、
 「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(法華経五一三)
と、法華経の肝心を「如来の一切の所有の法」以下の四句に結んで、上行等の地涌の菩薩に付嘱したことです。この四句は「四句の要法」「結要四句」ともいいます。

 法華経における付嘱

 仏教における付嘱とは、師より弟子に法を授け、弘通を託すことをいいます。
 釈尊は法華経本門において、滅後に法華経を弘通するため、別付嘱と総付嘱という二種の付嘱をしました。「総」とは総〈すべ〉ての菩薩に対しての付嘱、「別」とは地涌の菩薩に対しての究極的な付嘱を意味します。
 総付嘱は、『嘱累品第二十二』(法華経五一八)において、地涌の菩薩をはじめ、迹化他方の菩薩を含むあらゆる菩薩に対して教法を付嘱し、弘教を託したことです。このとき釈尊は、菩薩たちの頂を摩〈な〉でて付嘱の言葉を発したため、摩頂〈まちょう〉付嘱ともいいます。
 『嘱累品』で総付嘱を受けた迹化他方の菩薩の菩薩の再誕として、竜樹菩薩・天台大師・伝教大師等が正法・像法時代に出現し、法華経に基づく教えを弘めました(御書六三九)。
 ただし、この総付嘱は法華経の部分的な付嘱であり、あくまで、釈尊の化導を助けるための付嘱となります。
 これに対して別付嘱は、法華経についての一切の付嘱です。『神力品』における結要付嘱が別付嘱で、地涌の菩薩に対して末法に法華経を弘通するために行った付嘱です。
 『御義口伝』に、
 「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり」(御書一七八三)
とあるように、結要付嘱によって、法華経の所有者は、釈尊ではなく上行菩薩に移ったのであり、末法における法華経弘通の大権が、地涌上行菩薩のみに具わることを知らなければなりません。

 上行菩薩と久遠元初の本仏

 地涌の菩薩とはいかなる菩薩かというと、法華経『従地涌出品第十五』で、滅後末法における法華経弘通のため釈尊に召し出され、大地より涌出した六万恒河沙といわれる無数の菩薩方です。もとより娑婆世界において本仏の教化を受けてきた菩薩であるため迹仏に教化されてきた迹化の菩薩に対し、本化の菩薩といいます。
 法華経の会座における地涌の菩薩は、既に仏の相貌である三十二相を具え、釈尊よりもはるか年長に見えたとされます。その中の上首は上行・無辺行・浄行・安立行という四菩薩です。
 法華経の会座に地涌の菩薩が出現し、釈尊と地涌の菩薩との久遠以来の師弟の因縁が明かされたことにより、釈尊は『如来寿量品第十六』において、久遠五百塵点劫の本地を開顕することができたのです。
 この地涌の菩薩には、外用と内証の二面があります。外用とは、前に述べるように、釈尊久遠の弟子としての姿です。これに対して内証とは、『御義口伝』に、
 「本地無作の三身を顕はさんが為に、釈尊所具の菩薩界本化の弟子を召すなり」(同一八一〇)
とあるように、本化地涌の菩薩は久遠元初の本仏の已心の菩薩界であり、本来が本仏と一体不二の関係であるとされます。
 さらに、地涌の菩薩には「総体の地涌」と「別体の地涌」という義があり、末法には「総体の地涌」の義により、すべての地涌の菩薩の意義が上行菩薩一人に具わって、日蓮大聖人として出現されるのです(開目抄文段・文段127b)。
 『百六箇抄』に、
 「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(同 一六八五)
とあり、日寛上人が『文底秘沈抄』に、
 「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄 四九)
と示されているように、日蓮大聖人は地涌上行菩薩の再誕であると同時に、久遠元初の御本仏自受用報身如来の再誕なのです。また、久遠元初の御本仏と上行菩薩は本地と垂迹の関係で、本来が一体のものであり、上行菩薩はもとより久遠の本法である妙法蓮華経を所持しているのです。
 つまり、結要付嘱とは、釈尊の脱益仏法から、日蓮大聖人の下種仏法へとの一大転換に当たり、その筋目を要法付嘱の形式を立てて示されたものと拝することができます。

 付嘱の正体

 法華経の文上における結要付嘱とは、法華経を四句に括って付嘱されただけで、その正体については明確に示されていません。
 天台大師は『法華文句』(法華文句記会本下四六七)に、結要付嘱における四句の要法とは、妙法蓮華経に具わる名体宗用教の五重玄義であると説かれています。すなわち、「如来の一切の所有の法」とは名玄義、「如来の一切の自在の神力」とは用玄義、「如来の一切の秘要の蔵」とは体玄義、「如来の一切の甚深の事」とは宗玄義、「皆此の経に於て宣示顕説す」とは教玄義であると示されています。
 この名体宗用教を簡単にいうならば、名は妙法蓮華経という題目、体は本体・本質、宗は因果、用は作用、教は教えということで、妙法蓮華経についてのすべてという意味となります。
 大聖人は『三大秘法抄』に、
 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。(中略)此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書一五九四)
と、結要付嘱の名体宗用教の五重玄とは、妙法蓮華経の五字であると同時に、本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法であることを明示されています。三大秘法の中心は本門の本尊ですので、結要付嘱とは、つまるところ、本尊の付嘱に他ならないのです。
 これらの御教示から判るように、結要付嘱の正体は寿量品の文底に秘沈される妙法蓮華経の五字で、末法に日蓮大聖人が出現して弘通されるところの三大秘法、中でもその随一たる本門戒壇の大御本尊と拝せられるのです。
 『百六箇抄』に、
 「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(同 一七〇二)
とあるように、結要付嘱の大法は日蓮大聖人より日興上人へと、唯授一人の血脈相承をもって付嘱され、今日に至るまで総本山御歴代上人によって受け継がれているのです。

 次回は、「四箇の格言」について掲載の予定です

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