大白法 仏教用語解説

  仏教用語の解説 (57) 大白法1093 令和05年01月16号

四信五品



 四信五品とは、法華経『分別功徳品第十七』(法華経450)に説かれる「現在の四信」と「滅後の五品」のことで、釈尊在世(現在)と滅後(未来)における、法華経を修行する初心の行者の信行の段階を説く法門です。
 『分別功徳品』の四信五品より後は、法華経本門の流通分(法華経を未来に流布していくための教え)に当たっています。
 四信五品について大聖人は、『四信五品抄』において詳しく御教示されていますが、その中で、
 「分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世滅後の亀鏡なり」(御書1111)
と説かれています。
 また日興上人は、『富士一跡門徒存知事』(御書一八七一)において、
 『四信五品抄』を御書十大部の一つに数え、さらに自筆の写本を残されるなど、四信五品は、末法の法華経の行者の姿を顕わす法門として、古来より重視されてきました。

「現在の四信」

 「現在の四信」とは、釈尊在世における初心の法華経修行者の信行の度合いを四つに分類するものです。これを、『分別功徳品』の文意に従って『法華文句』(文会下374)に次のように説かれています。
@一念信解 如来の寿命が久遠常住であることを聴聞して、有り難いと信じる初発心の位。
A略解言趣 『寿量品』に説かれる顕本を、ほぼ理解できる位。
B広為他説 自ら法華経を受持し、さらに広く他の人に向かって説くことができる位。
C深信観成 深く信解して不退転の信仰を確立し、正しい観念を成ずる位。
となります。四信の信は、信じ敬う意で、四つの修行すべてに信が通じていることから四信といいます。

「滅後の五品」

 次に「滅後の五品」とは、釈尊滅後の未来における初心の法華経修行者の信行の度合いを五つに分類したもので、品は位階(位分け)を意味します。これも『法華文句』(文会下386)に説かれており、
@随喜品 法華経を聞き、歓喜の心を起こした位。
A読誦品 法華経を読み、また誦んじ、固く受持する位。
B説法品 修行が一段と進んで他の人に向かって受持読誦を勧め、説法ができる位。
C兼行六度品 前の三品に六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)を兼ねて修行する位。
D正行六度品 法華経に立脚して六度を正しく修する位。
となります。
 『法華文句』(文会下395)によれば、現在の四信と滅後の五品の関係は、一念信解か随喜品と読誦品、略解言趣が説法品、広為他説が兼行六度品、深信観成が正行六度品に対応します。釈尊の在世には経典が成立していないので、四信に読誦がありませんが、四信と五品の意義は基本的には通じています。

一念信解・随喜品は名字即の位

 法華経『分別功徳品』の、滅後の五品の第一である随喜品を説く段には、
 「又復、如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀呰〈きし〉せずして随喜の心を起さん。当に知るべし、已に深信解の相と為す」(法華経 456)
とあります。現在の四信の第一は「一念信解」であり、信に加えて一分の解かある位とされていますが、未来(滅後)は、法華経を毀呰(誹謗)せず、わずか一念の随喜の心を起こすことが「深信解の相」であると説かれます。
 この意義は『四信五品抄』に、
 「現在の四信の初位である一念信解を滅後の五品の初位である随喜品に対応させた場合、信解の解の一字は奪われ、信があるのみの位、法を聞いて随喜の心を起こしたのみの位、即ち名字即の位となる(趣意)」(御書1111)
と示され、その文証として妙楽大師の『摩訶止観弘決』の、
 「教弥〈いよいよ〉実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高し」(止会中748)
の文を挙げられます。つまり、実教である法華経を修行する者は、智者・学匠である必要はなく、法華経を信じ、随喜するのみの名字即〔*1〕の凡夫である。その意義は「五十展転随喜の人」〔*2〕であり、それこそが仏意に適うのであると説かれるのです。

三学と以信代慧

 仏教徒が習学すべき内容として、戒(非を防いで悪業を止めること)・定(身心を静め心を一処に定めること)・慧(煩悩を断じて智慧によって真理を顕わすこと)の三学があります。しかし滅後の五品のうち、随喜品、読誦品、説法品には戒・定がなく智慧のみの修行です。兼行六度品と正行六度品は、六度に持戒・禅定が含まれるので戒・定・慧の三学が揃うことになります。
 初めの三品の修行に戒・定がない理由を、『四信五品抄』に、
 「五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(御書1112)
と、初心の者は様々な縁に紛動されて仏道修行が妨げられてしまうので、仏はあえて戒・定の二法を制止して慧の一行のみとしたのである。さらに、智慧のない者であっても、信心をもって智慧に代えれば、名字即の位のまま仏道を成じることができ、逆に、法華経不信の者は堕地獄である、と説かれるのです。

以信代慧の修行とは

 末法の行者が智慧に代わって行うべき信の修行とは何かというと、『四信五品抄』には、
 「末法の行者が種々の修行を行うことは、たくさんの宝を積んだ小舟が沈没してしまうようなものであり、ただ題目の一行のみを行ずるべきである(趣意)」(同1113)
と説き、さらに、
 「題目には万法の功徳と、法華経一部の意が収められている。初心の行者は、題目の意を理解しなくても、題目を信行すれば、自然にその功徳を得ることができる(趣意)」(同1114)
と教示されています。つまり、末法の正しい修行とは、一念信解・随喜品の名字即の凡夫が、妙法への信と題目修行によって成仏を遂げることである、と仰せられているのです。
 大聖人は四信五品の御教示を通じ、法華経に信を取る末法の行者は、たとえ解がなくとも、爾前諸経の聖人に勝れること百千万億倍であるとも説かれます。

 *1 「名字即」とは、法華円教の六つの行位である六即の一つで、名字即は下から二番目の位。初めて法華経を聞いて信心を起こす凡夫の位。天台大師の『摩訶止観』に説かれる。
 *2 「五十展転随喜の人」とは、仏滅後に法華経を聞いて随喜した人が、次々に法華経を伝えていき、五十人目の人に至ったとき、たとえ内容が損減していても随喜しただけで、その功徳が無量であることを説く法門。法華経『随喜功徳品第十八』に説かれる。
次回は、「三周説法」について掲載の予定です

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